道元禅師「学道用心集」に曰く、「道にさへられて当処に明了、悟にさえられて当人円成(えんじょう)す」と。
確かになければならないものが在ることは事実です。
それでは「何か」、といって当方の側に特別なものが在るのではありません。
平等だ差別だ、違いだ悟りだと世間は騒がしい、しかし、それが「世間(人間界、娑婆世界)の有り様」です。
その世間を離れて他に住む処は有(在)りません。
苦悩する老若男女に唯一つ残された道が在ります。
それは「法に目醒める道」です。
道元禅師「学道用心集」に曰く、「道にさへられて当処に明了、悟にさえられて当人円成(えんじょう)す」と。
確かになければならないものが在ることは事実です。
それでは「何か」、といって当方の側に特別なものが在るのではありません。
平等だ差別だ、違いだ悟りだと世間は騒がしい、しかし、それが「世間(人間界、娑婆世界)の有り様」です。
その世間を離れて他に住む処は有(在)りません。
苦悩する老若男女に唯一つ残された道が在ります。
それは「法に目醒める道」です。
あたかも私たち衆生が名付けたものに因って混乱をさせられているように思うことがありますが、それは全くの間違いです。
その問題を生ぜしめているものは「私たち衆生」なのです。
「おシャカ様の教え(無我の教え)の自然(じねん)」と私たち衆生の名付けた「自然(しぜん)」とは比較になりません。
人が生じる以前に森羅万象は既に有(在)りました。
人が生じる事に因ってその森羅万象を「認識の対象」としたのです。
そして人が認めることによって、森羅万象の様子を「自然(しぜん)」と名付けたのです。
「山川草木(さんせんそうもく)それ自体」は自然とも不自然ともそういうあり方はしておりません。
ですから、人がただそう名付けたということです。
仏教では「人の生ずる以前、人が森羅万象の様子を認める以前のようすを「自然(じねん)」といいます。
すべてのものを「人が認識(認めた事に因って)」し、自然(しぜん)を名付けた事に因って「自然(じねん)と人との隔たり」が生じたのです。
私たち衆生は何か目的を持って生まれて来たという人は誰一人有(在)りません。
知らず識らずに生まれてきたのです。(不知不識生)
「無目的という目的」を持って生まれてきたということも有(在)りません。
本当に「縁」に因って生じ「縁」に因ってこのような営みが出来ているということなのです。
そこにはよくいうように意義付けることも意味付けることも、何も有(在)りません。
ですから出来るだけ「人の言葉の中での修行」という事を止めないといけません。
「今の事実、その物」は前稿で掲げた言葉、即ち「法、道、禅、空、無、如是」と名称は異なりますが、全く同じものなのです。
それを「異名同体(いみょうどうたい)」と言います。
法、道、禅、空、無、如是というものは「同じ事実(一つの物)」を様々な言葉で表現したものです。
誰一人として生まれながらにして覚者である自覚のある人はいません。
「真理」は誰のものでもありません。
ですから私たち衆生は「自分で自分自身に目醒める」必要性があるのです。
世の中では「真理(自分をも含めて一切のもの)」を多くの方々が色々な言葉を用いて説明しています。
一例を挙げれば「法、道、禅、空、無、如是」なのです。
真理は何時でも何処でも何をしていても「人種、文化、思想、言葉」に左右されることがあってはなりません。
真理は偏り様がなく、汚れることもなく、生まれることもなく、滅することもないものでなければ真理とは言えないのではないでしょうか。
人類史上で始めてその「真理」に目醒められたお方がおシャカ様なのです。
私はおシャカ様の目醒められた様子を「今の事実が真理そのものである」と皆様に提示しているのです。
「四大仮和合(しだいけわごう)」はどこまでも同じです。
因縁は各々(おのおの)異なりといえども無自性なることはどれも同じです。
ですからどうしても「自己という塊」を認めようがないのです。
般若心経の「色即是空」とは「色」に惑う人のために設けた「応病薬」なのです。
「色即是空」も「空」に迷う人のための一時の設けです。
本来は「色即色、空即空」なのです。
男性は男性、此の男性は彼の男性ではありません。
女性は此れ女性、彼の女性ではありません。
しかし、「眼横鼻直(がんのうびちょく)」はどこまでも同じなのです。
いくらと遠ざかっていても同じものなのです。
それほど親しいものはありません。
離れていながら同じものなのです。
元来同じものなのです。
波は変われども水はひとつなのです。
全異全同なのです。
「同」に偏しては行けないし、「異」に堕してもいけないのです。
世間の法は全て有形無形の事物を他の事物と区別して言語で表した呼び方をしています。
物物元来同一生(もつもつがんらいどういっしょう)というお示しがあります。
四大(地水火風)は古今に通じています。
同じものから「縁」に触れて千差万別があるのです。
言い換えると千差万別のままで同じものなのです。
これを「全異全同」といっています。
男性は男性、女性は女性、地は地と、別々ですけれどもそのままで同じものなのです。