活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

悟了同未悟1

2018年02月28日 | 法理

「悟り」というものは個人的な体験であり、「悟り」そのものは普遍的なもの

であるにもかかわらず、そこに至るきっかけというのはその人にとってのみ

意味があるものです。

 

「悟り」は通常の活動を超越した意識状態であるために、悟っていない人には

どのように説明したところで、それを「理解(納得)」させることは出来ないし

既に「悟りを体得している人」には、説明をする必要などあるはずがないという

「原則(法理)」を理解する必要があるのです。

 

何故ならば、「法」からいえば、「悟了同未悟(ごりょうどうみご)」だからです。


覚者信仰の克服

2018年02月27日 | 法理

「人法(にんぽう)」というお言葉があります。

「法」からいえば現象界に存在するあらゆるものは「神仏そのもの」が

顕われてきたわけですから、誰であり何であろうと、神であり、仏である

ことは「間違いのない事実」です。

 

「人(にん)」からいえば、物質世界の現象に囚われて「自分と他人という

分離感が生じている視点(個の存在を認めている視点)」では、それは

「神仏の実相」ではなく、自分の外にいる特定の「個人(神仏)」という

幻想、即ち個の存在に意識が合っています。

 

こうした幻想を「神仏」や何らかの特別な「存在(覚者)」に見立てて

自分と区別してしまうと「現象」でしかない外側の存在に頼ろうとする

心の働きが生じます。

 

これが「自我の働き」であり、「迷い」なのです。

「覚者信仰の克服」の大切な所です。


固定観念5

2018年02月26日 | 法理

しかし、私たち衆生の多くにとって「色」はあまりにも日常的な

体験であるために、ほとんどの人が「色は現実の存在である」と

思い込んでいるのです。

 

「固定観念」は、それに反するものを排除するように働くので、

物事の本質とは無関係にその人の表現を制約し始め、「仏性」を

顕わす上では、手かせ足かせとなるような障害物を心の中に

築いていくことになるのです。


固定観念4

2018年02月25日 | 法理

私たち衆生の多くは自分の外側に「確かな世界」が存在していると

無条件に思い込んで毎日の生活をしています。

 

しかし、視野に入って来るひとつひとつの存在物は、ほとんどの場合、

私たち衆生の過去の記憶に基づいて、それが何であるかを判断しているのです。

 

別の言葉で言えば、「色(いろ)」は自然界に「元々あるもの(実在するもの」

ではなく、私たち衆生の視覚の仕組みによって心の中に知覚されている主観的な

一種の映像なのです。

 

 


固定観念3

2018年02月24日 | 法理

私たち衆生が長期にわたって論理的な思考を中心とした精神活動を

続けていると、「心の働き」のためにあらゆるものを「既成の概念という

フィルター」を通して見るような習癖が出来上がってしまい、その世界観が

唯一、絶対であるかのような「錯覚」を生じるようになります。

 

いったんこの様な状態に陥ると、元々は「自分の心が造り出している

観念に自分自身が支配される」という自縛の罠が完成し、その人はそれ以外の

物の見方が出来なくなってしまいます。

 

本来は完全の自由を持っている意識を限定し、「固定観念」という迷妄の檻で

囲った牢獄に閉じ込めて「真実」を観えなくしてしまいます。

 

これは「感情」の領域でも同じことが言えます。


固定観念2

2018年02月23日 | 法理

「現在(今)」という瞬間の断面は、「過去から未来に向かって流れる時間」

というような感覚が遥か古代から共通の感覚として意識し続けてために、

強力なエネルギー、即ち「固定観念」を造り出してしまいました。

 

こうした事情のために、私たち衆生の多くは「時間」が実際にあるかのような

「現実観」を生み出してしまったのです。

 

ですから、仏教でいう「前後際断(悟り)」の必要が生じるのです。


固定観念1

2018年02月22日 | 法理

私たち衆生は、「物質」というと何か恒久的な存在とか、確かな実体のあるもの

というイメージを思い浮かべがちです。

 

これらのイメージは、心の中に造り上げた「固定観念」に過ぎません。

 

私たち衆生がいったん心の中に様々な「固定観念の枠組」を造ってしまうと

その人はあらゆることをこの枠組を通して判断するようになるのです。


錯覚する

2018年02月21日 | 法理

「ほとんどの科学者(私たち衆生も同じですが)」は、観察者の意識を

物質で構成される「五官」から生じるものだけに限定しています。

 

そして、それに因って世界観が唯一の絶対正しい認識であると思い込む

「錯覚」があります。


一切のものには影や実体がないのです。


「響」を例にとればたしかに「響」はあります。

ですが、「実体」はありません。


しかしそういう「実体」のないものを私たち衆生は間違って「実体がある」

と、「錯覚」しているのです。


その最初の「錯覚」は、自分が生まれたことを自分は識らないのに、

「自分が生まれた」と認めていることです。


「不知不識生(知らず識らずに生ずる)」なのです。


観念3

2018年02月20日 | 法理

「心」は未体験のあるものについては、外部からの情報を提供されると

それについての何らかの心象や観念を造り出す働きをします。

(※これは法の働きです)

 

この観念は極めて限られた経験の中で組み立てられた推測に過ぎないもので

「法そのもの」とは全く異なるものです。

 

しかし、この観念はいかにも「事実」であるかのようにその人の「識別心」を

幻惑する作用を持っているのです。


観念2

2018年02月19日 | 法理

つまり、「法(真理、事実)」の理解については、体験が全てに優先する

ものであって「自我意識」によるどんな推測もその代用には成り果たせないのです。

 

「法(真理、事実)」は、「法(真理、事実)そのもの」を以ってしか、

「成り果たせない(識ることは出来ない)」のです。