活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

「二つの考え」を論ず2

2017年12月31日 | 法理

仏教には「煩悩即菩提」というお示しがあります。

 

普通に考えると「菩提」とは、「悟りだ仏だ」ということになり、

「煩悩」というと様々な思いが乱れてどうのこうのということですが、

仏教の世界というのは比べようがない世界です。

 

本来の自己に目醒めてみれば「煩悩がそのまま菩提」なのです。

 

煩悩は煩悩、別に善いものでも悪いものでもありません。

 

難しいことですが、そういうものなのです。


「二つの考え」を論ず1

2017年12月30日 | 法理

思ったものはそのまま、真実でも真実でもないものでもありません。


「思いは思いのままの事実」しかあり得ないということです。

 

「二つの考え」を同時に自分の心の中に入れることは不可能です。

 

例えば、「心の中で二つの考えを同時(一緒)に考えてみなさい」

と言われても、一つの考えが無くならなくては、次の考えは心の中に

入りません。

 

つまり、一つの考えは、一つの考えで一つの世界(全体)なのです。


「既知の知」を考える2

2017年12月29日 | 法理

何故、自ら気が付くかというと、みんな「信じる信じない」ということから

入って来ているからです。

 

「信じる信じない」というのは、途中から作り上げたものです。

信じたからものが見える、信じないからものが見えないというものでは

ありません。

 

「信じる信じないということに全く関係なく」もともと私たち衆生は

「自我の介在」さえ無ければ「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の働き

のままに有(在)る」ということに気が付くはずです。

 

しかし、自我の介在がある為になかなか、「そのものに成れない」という

もどかしさが有(在)るのです。

 

 


「既知の知」を考える1

2017年12月28日 | 法理

仏教の道理というようなことは、皆さんよく御存じです。


そして、「道(法)」というのはこういうものだ、仏教の教えというのは

こういうものだと、「教えの中でわかったとか、わからないということで

終始している」と思います。

 

しかし、それではいけないのです。

 

「既知の知(自分が築き上げてきた知)」をもう一度根底から崩さなければ

なりません。

 

そうしないと、教外別伝(きょうげ べつでん)の法には到達できません。


これを「法の道理」として知っておいて頂くと、「これは途中のものだから

そういうところに腰を据えていてはいけない」ということに自ら気が付いて

いけると思います。


「問題の本質」を考える4

2017年12月27日 | 法理

そういうと「実体、究極(今の事実)というものが有(在)るのか」

ということになりますが、何時でも「実体、究極(今の事実)」だけなのです。

 

今、今の連続だけなのです。

 

そもそも私たち衆生は、「思考の次元にはいないという事実」に気が付かなければ

なりません。

 

私たち衆生は、「今」存在しているのです。

「今」以外には存在することは出来ないのです。

 

しかし、私たち衆生はその「自覚」を失っているのです。


「問題の本質」を考える3

2017年12月26日 | 法理

「のど」が乾く時に「水、水」と言っても決して「のど」の渇きは

いやされません。

 

又、「火、火」と言っても、唇が火傷することはありません。

そのくらい「事実と自分の観念との間」には相違が有(在)るのです。

 

ですから、どうしても「自分の正体」を見極めない限りは、どんなに

立派に「事実」説明しても「実体、究極(今の事実)」までは届かない

ということです。


「問題の本質」を考える2

2017年12月25日 | 法理

「問題の本質」は、他の知識によって育て上げられた自分だと思っている

自分と、本当の自分との間に問題が生じていることに気が付いて頂かなければ

なりません。

 

そうしないと、「いつまでたっても相対的なものの見方や考え方しか出来ない」

ということになってきます。

 

何も知(識)らない自分が、「ものの本質(本当の自分)という物(自分自身で

これだという物)」を体得しない限りは、どんなに克明に理論が完璧な物であった

としても、それは他の人のものの見方や考え方という物を自分のもののように

取り扱っているだけなのです。


「問題の本質」を考える1

2017年12月24日 | 法理

自分という者は如何にして、何時から自分に成ったのか。

自分で自分に問いかけても分かりません。

 

何故でしょうか。

それは、「人間(じんかん)※」によってそのように教えられたからです。

 

私たち衆生は「人間(じんかん)」によって育て上げられ(知識を得)てきた

自分だとおもっている自分を「本当の自分」であるかのように錯覚して

振る舞っているだけなのです。

 

「私は何年何月何日に生まれ、名前はかくかくしかじかです」と。

 

しかし、よく考えてみて下さい。

「本当に自分で自分のこと(自分で知ったこと)を分かっている(知っている)

人は一人もいないのです。

 

「自分が生まれた事(時)を自覚している人は誰一人としていない」のです。

 

 

※広辞苑に拠れば人間(にんげん)①人の住む所、世の中、世間、じんかん

と、掲載されています。

 

 


「本覚思想批判」を考える2

2017年12月23日 | 仏教

そのように、「仏法」というひとつのものに対して論を積み重ねていくと

最後に「私」という自我意識が残ります。

 

どんなにしても「自我意識(私)が仏法と別なものにしか思えないのです。

 

どうか、おシャカ様の道を借り、歴代の覚者の法を借りて、

「自分自身が法そのものであった」

ということに気が付いて頂きたいと思います。

 

その為に修行し、「実相は無相である」という

「信決定(しんけつじょう)」をして頂きたいと思います。

 

人の法を求めても何もなりません。


「本覚思想批判」を考える1

2017年12月22日 | 仏教

「ものがどんどん移り変わっていく」というようなことを聞くと、

「悟りや見性」というのは、今はそうだけどやがて又変わっていくのでは

ないかと、考えられがちです。

 

現に、「本覚思想批判」といって、

「道元禅師の教えは、お若い時分に言われたことと、晩年になってから

言われたことが違うので思想的に大変な変化がみられる」

というようなことを、おっしゃる方も出て来て居ります。

 

極端な方になると、「だから悟りだ見性といってもある一時期の

経験に過ぎない」という人もあります。