活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

二つの考え

2015年11月30日 | 法理

思ったものはそのまま、真実でも真実でないものでもありません。

思いは思いのままの事実しかないということです。

 

「思いを重ねる」という言葉がありますが、二つの考えを同時に自分の心の中に入れることは不可能です。

例えば、「心の中で二つの考えを一緒に考えてみなさい」といっても、一つの考えがなくならなければ次の考えは心の中に入りません。

つまり、一つの考えは一つの世界なのです。

 

仏教に「煩悩即菩提」という言葉がありますが、煩悩がそのまま菩提なのです。

普通に考えれば、菩提というと悟りや仏だということになり、煩悩というと様々な思いが千々に乱れてどうこうということになると思われがちです。

しかし、仏教の世界というのは比べようのない世界です。

煩悩は煩悩、別に善いものでも悪いものでもありません。

難しい事ですが、そういうものなのです。


人権とは

2015年11月29日 | 仏教

「人権」という問題が大きく叫ばれておりますが、

「これが人間(にんげん)だ」と規定するものは何にもありません

 

 

仏教には、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄という「六道(りくどう)」があります。

さらに、一応迷いがなくなった人を、仏・菩薩・声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく) 

という言葉で表し、それら全部を「十界(じっかい)」といっています。

 

つまり、私達衆生の様子はいつでも、

仏・菩薩・声聞・縁覚・天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄という十界を巡っているので、

人の知恵でつくった「人権」というものをなくそうと思っても不可能なことです

 

要は、仏教の精神の「十界」「六道輪廻(りくどうりんね)」の理(ことわり) がわからないと、

本当の平等とか「差別(しゃべつ)」とか人権ということはわかりません

 

人のために何か善いことをしなければならないような気持ちを起こしている人を「菩薩」と呼びます。

また、どんな様子があろうと、そういうことを一切相手にせず、邪魔にしない人を「仏」と言っています。

 


三昧 2

2015年11月28日 | 

成り切って己を忘れることを三昧(ざんまい)と言います。

禅語で「心境一如(しんきょう いちにょ)」と言います。

 

お百姓さんが畑仕事をしている時は「三昧」です。

昔の話ですが、朝早く起きてご飯を炊くことも「三昧」です。

飯を炊く時に何かありますか。

炊く時は飯を炊くことばかりに成り切って、他には何もないと思います。

つまり、「三昧」になっているのです。

 

飯に成り切るからしくじることはありません。

人が御飯を炊くのではありません。

飯が飯を炊くのです。

 

人が坐禅をするのではありません。

坐禅が坐禅をするのです。

「坐禅は坐禅なり」です。

 

ですから、良い御飯が出来なければならないはずなのです。

これは理窟ではありません。、

実験してそこに徹するのです。

 

 


山川草木悉皆成仏(さんせんそうもく しっかいじょうぶつ)

2015年11月27日 | 仏教

おシャカ様は「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもく しっかいじょうぶつ)」と言われました。

なのに、心ある人が何故そのことに迷って、他を探すかということになります。

 

迷いがあるから迷いに気が付いた時、それが悟りだということです。

迷いがなくなって悟るということではありません

 

又、不安が変化して安心(あんじん)があるということもありません。

分からない時は、不安というものが迷いになるのです。

分かってみれば不安が不安のまま、それが悟りだということです。

 

この法は「なんとかして」というものがなければ、なかなか目的は達せられません。

自分自身のものを、自分自身で「ここにあった」と気付くことですから、誰でも出来なければならないことです。


草木国土悉皆成仏(そうもくこくど しっかいじょうぶつ)

2015年11月26日 | 仏教

私達衆生が泯絶(みんぜつ <ほころびて だんだんなくなっていく> ) するには、いろいろな手段や方法があります。

「三乗(さんじょう)」といって、ある人には「声聞乗(しょうもんじょう)」、ある人には「縁覚乗(えんがくじょう)」、ある人には「菩薩乗」という乗物(方便や手段)によって無明というものを断じていくのです。

皆それをやっているわけです。

 

しかし、声聞、縁覚、菩薩というような名前を立ててはいますけれども、結果から言えば一つのものなのです。

それが坐るということです。

 

現在の日本においても様々な宗派があります。

いろいろな修行の方法はありますけれども、畢竟、一つに成るということです。

 

ですから名前に迷わされないようにしていただきたく思います。

そして、「草木国土悉皆成仏(そうもくこくど しっかいじょうぶつ)」という事を、きちんと自分のものにしていただきたいと思います。


日常生活

2015年11月25日 | 坐禅

坐っている事を忘れる為に坐るのです。

日常生活で本当に坐る事に成り切るとか、三昧(ざんまい)にならなければいけないなどと思わなくても相続出来ていくような人になっていただきたいものです。

 

「坐して坐することを知らない」、知らないというよりも、そういうものがないところまでに行っていただかないといけない、という事です。

実は、知るとか知らないとかに関係なく、私たちはそれをしているのです。

気が付かないだけなのです。

 

花は雨で散っても、花そのものは一向に悲しんでいません。

あるいは、咲いたからといって喜んでもいません。

時期が来れば花が咲きます。

何かそこに隠されているものがあるでしょうか。

 

私たち衆生も時節因縁に因って、必ず自分で花開いているのですけれども、自分で気が付かないだけの話です。

これはどんな知恵でも測る事は出来ません。

 

しかも、やらなければならない事は、考えなくてもちゃんとやれますし、やってはいけないことは、やらないでいられます。

これはもう本当にそのとおりの生活をしている訳です。

 


その人 2

2015年11月24日 | 

熱いものは熱い、冷たいものは冷たい、悲しい事は悲しい、皆同じ人です。

おシャカ様を始め、歴代の覚者といわれる方々は誰一人として特殊な人はいません。

その人が、ある縁によってか「道 (法)」を求め、導かれ、そしてその「道」を歩んで来られたのです。

その事によってそういう機縁に遇ったという事ですから、どなたでも「志」さえあれば「今の自分の事実」に気が付くという事です。

 

「自分の法に目醒める」という事は、おシャカ様の「法」ではありません。

独立した自分というものになる訳です。

 

“私はとてもおシャカ様のような人にはなれない” という人がいます。

よく考えてください。

皆それぞれ違うのに、同じ人になろうと思うのはおかしいと思いませんか。

 しかし、同じ人にならなければおかしいと思う人が多いのも事実です。

 

「法 (道)」というものは、そういうものではありません。

おシャカ様の教えはインドから中国に入り、中国から日本に入ってきましたが皆それぞれ違います。

ですから、その土地、その文化によって様々に形を変えて今日までこのようにあるのです。

「法 (道)そのもの自体」は、もともとないものですから、「法 (道)そのもの」は、ひとつも変わっておりません。

 

これからは私たち衆生が自由に、

「おシャカ様の時代はそうであったかもしれませんが、今はこうでなければなりません、このほうが多くの人によくわかってもらえると思います」

と、言うぐらいの自信を持って「法 (道)」を自分のものにしていただきたく思います。


その人 1

2015年11月23日 | 
「悟りがあってはならない」あるいは、「得るべきところがあってはならない」「目的を持って坐ってはならない」と。

こういう間違ったことを話す人がいます。

これは悟った人、究極に達した人、【その人】の言葉なのです。


ですから、「これから法を求めていかなければならない」という人、「なんとかしなければならない」という人はそんなことに耳を貸していたら駄目なのです。

一所懸命に頑張らなくてはなりません。

目的に向かって一歩一歩進んでいかなければなりません。

それでないと【何にもなりません】。


道元禅師の教えというのは、「一毫 (いちごう) の仏法なし、身心脱落し来る」、その説明なのです。

ですから、「その人」に成らないといけないのです。


「その人」というのは、「身心脱落の人、一毫の仏法なしと明らめた人」です。

「一毫の仏法なし」ということを、本当に【自分で見極め】なければなりません。

菩提達磨大師

2015年11月22日 | 
禅における国際交流の元祖というべき御方はインドから中国へ「法」を伝えた「菩提達磨大師 (ぼだいだるま だいし)」です。

達磨様は中国で経典や公案や祖録の解説をされたのでもなく、禅会を主催し坐禅の指導をされたのではありません。


又、お寺を建て、多くの人々を仏教徒にするために、教化 (きょうか) 活動をしたのでもありません。

【形のない法、形のない相(すがた) の坐禅】を伝えたのであって、現在の指導者とは大変異なるところです。


おシャカ様は迦葉尊者 (かしょう そんじゃ) に法を伝えられました。

すなわち「正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相」の法が伝えられたのです。


達磨様は慧可大師 (えか だいし) に法を伝えられ「不識」が伝わりました。

如浄 (にょじょう) 禅師は道元禅師に法を伝えられ「祗(只)管打坐、身心脱落 」が伝わりました。

道元禅師は懐奘 (えじょう)禅師に法を伝えられ「眼横鼻直にして一毫の仏法なし」ということが伝わりました。


おシャカ様を始めとして歴代の覚者といわれる方々の禅は、御言葉は様々な表現ですが、全部同じものなのです。

照顧脚下 (しょうこ きゃっか)

2015年11月21日 | 語録
私達衆生は、いつでも「道」の中にいるのですが、それを自分で気が付かないだけなのです。

「照顧脚下 (脚下を照顧せよ)」〈足もとをよくみなさい〉と。


「道」は他にあるものではありません。

いつでも、どこでも「道」の真っ只中にいるという事を言っていると同時に、足を運んで「今」の他を訪ね回るような事をしてはいけませんよということを言っているのです。


「迷う」というのは、今の他に「道」を求めて隔てを作ってしまう事です。

もともと隔てのないものを、勝手に隔てを作って苦しんでしまうのです。


生きる事も、死ぬ事も同じ「道」です。

決して生まれることがめでたくて、死ぬ事が不吉だという事はありません。


その「道」とは、どこにあるのか。

「全部道」です。

「道」を外れた生活は一時もありません。


ですから、今ある「道」を一所懸命に楽しみ、所に安住し、努めてやまない、それが値打ちある人間 (にんげん) の生活というものです。