「ものと一体に成る」という言葉を聞くと先にそういう「観念」を作って
「今、一体と成った」と思い込むことがあります。
しかし、それは「一体」ではありません。
思った時はもうすでに一体から離れて、そういう状態を眺める自分が残って
いるということなのです。
「何故か」ということを問題にして修行しないといけないということです。
それが禅でいう「現成公案(げんじょうこうあん)」です。
「ものと一体に成る」という言葉を聞くと先にそういう「観念」を作って
「今、一体と成った」と思い込むことがあります。
しかし、それは「一体」ではありません。
思った時はもうすでに一体から離れて、そういう状態を眺める自分が残って
いるということなのです。
「何故か」ということを問題にして修行しないといけないということです。
それが禅でいう「現成公案(げんじょうこうあん)」です。
おシャカ様の説かれた「法(悟り)」は時代に関係なく、「平等と差別(しゃべつ)」
を説いています。
すべてのものが「平等と差別(しゃべつ)」から成り立っているのです。
善悪や好悪の判断も「平等と差別(しゃべつ)」なのです。
好いと思えば喜び、悪いのは嫌だというのは「差別(しゃべつ)」があって
「平等」がないということなのです。
「禅」は「善(好)い」ものも、悪いものも持とうとも思わないし、放そう
とも思わない、両方とも忘れなさいという考えです。
私たち衆生は「悟り(平等と差別)」を離れた生活は出来ません。
つまり自分の存在するということが「悟り(平等と差別)」なのです。
私たち衆生は色々な「縁」に因って存在していますが、自分が存在している
ことに気が付いたことはないはずです。
気が付かないのにちゃんと人として営みをしています。
「今の自分というこれほどの真実がある」のにその外に「悟り(平等と差別)」
を求めるからわからなくなるのです。
「唯務(ただつとめる)」の「唯」は、「唯」が先にあるのではありません。
後にあるものでもありません。
何かを完全に務めている時には「唯」も何もありません。
たとえば、苦いものと辛いものを口にすると「苦い」とか「辛い」とか
いいますが、それは過ぎてしまった知覚(認識)で分かることです。
つまり、全部過ぎたこと(過去)だから分かるのです。
その中にいる間は分からないのです。
分からないくらいに「真実(事実)の中」にいるのです。
私たち衆生の日常生活の様々な状態も、いつも自分というものが判断したり
考えたりしていると思いますが、様々に変化している自分というのは嘘でも
本当でもない、「それだけの因縁」によって現れているだけのものであって
私たち衆生はいつも「何もない世界」にいるのです。
だんだん静かになっていって、そして静かになった「その結果」が脱落
だとか、悟りだとか、涅槃だとかということを考えてはいけないのです。
何故ならば、「修證不二、因果一如」というではありませんか。
「今の事実(修證不二、因果一如)」ほど確実なものはありません。
自分自身のことではありませんか。
他に求めるものは何もありません。
どんなつまらない考えが起きてきても、そういう状態のまま成り潰れて
いって頂きたいと思います。
原因の因さえ作れば、結果というものは求めなくても必ず現前するものです。
現われるものです。
「唯務(ただつとめる)」それだけです。
修行すればだんだん落ち着いてきて、葛藤がなくなり、雑念、妄想、分別が
出なくなると考えがちです。
しかし、そういう状態を描いて考え、望んで修行してもそれは駄目なのです。
何故かというと、葛藤そのもの、雑念、妄想、分別そのものが「もうすでに
脱落している(解決済み)」からです。
「唯務(ただつとめる)」とは、どんな状態にあっても唯(ただ)それを務めている
ということです。
別の言葉で言えばそのものの中に自分の身を沈めて、一切自分の考えというものを
出さないということです。
「坐禅は坐禅なり」ということです。
そのこと(今の事実)以外に脱落の状態、悟りの状態、涅槃の状態というのは
ないのです。
どれだけ自分が自分を信じていても知らず識らずのうちに、やはり此の物は
変わらなければならないと思ってしまうものです。
実に不思議なものです。
長い間かかって修行していると「これでいいのだろうか、こんな自分の
言動でいいんだろうか」というようなことを考え出すものです。
それくらい流れ出る「自分の意識」というものは取れにくいものです。
そこで万(ばん)止むを得ず、しばらく修と證を分けて修行をしてもらう
のです。それ以外どうすることも出来ません。
私たち衆生は「衆生本来仏なり」ということをなかなか信じられないものです。
何故ならば先ず自分の観念で「仏」というものを作り出して「仏」というのは
こういうお方だろうということから、自分の生活と比べてみてしまうのです。
自分自身が「仏(おシャカ様)」であるということが本当に信じられないのです。
「修行して仏に成ろう」としてしまうのです。
結論から言えば、私たち衆生一人一人がすでに悟りの中で生活しているのです。
既に自分の無くなった様子で日常生活を営んでいるのです。
「本当に人が人に成った時(仏に成ろうという求め心が無くなった時、凡夫が
凡夫に本当に ”ああこれでよかったんだ” と自ら許した時)」を「仏」といいます。
すべてはみんなそうなるべき因があった結果です。
ですから偶然ではなく必然なのです。
自分がやるのでしたら思うようにいきそうなものですが、そうはいかないのです。
一番解るのは自分が長生きをしたくてもそうはいかないではありませんか。
これが「真理の実験」です。
古人は「事実は真理の証明者なり」といっています。
何事でも出たものが結果ですから、他に比較の仕様がないのです。
その時その時一杯一杯のものですから比較の仕様がないのです。
ですから「その場その場の真理」に安住して唯、務めていけばよいのです。
始めからいちいちそういうふうに、すっかり解脱をした境界に誰でもいる
のですが「そんなことが」という気がするものです。
「そんなことが道なのか」と思うのです。
だから困るのです。
「道」というものを遠い処に求めて理想を描くからです。
人間(にんげん)が理想を描いているといかにも立派そうですけれども、
それが「迷いの根」なのです。
それを知(識)らないのです。ほとんどの人が如何にすべきか、何処が本当
なのか、ちっとも分からずに騒動しているのです。
「仏教」というものはそういうものの中心をきちっと今、教えているのです。
おシャカ様はそういう尊い道を教えられたのです。
「仏道の教える道」は、私たち衆生がこれから立派な者に成るのではないのです。
これから解脱するのではないのです。
最初から解脱していたということなのです。
すでに立派な者であるものを私たち衆生は忘れているのです。
ですから、そういうことに私たち衆生は気付いて見るということなのです。
そういうことが大切なのです。
それは何故かといいますと、おシャカ様が「大悟」された時に
「一切の衆生は如来の智と徳と相とを全部具えて居るではないか」と、
おシャカ様御自身がそのように宣言しておられるからです。
「仏道」でいう救われるということは、外の人が救うのではありません。
「自分自身が自分自身を本当に救う道」なのです。
それをおしえられたのが「仏祖」です。
ですから、おシャカ様は尊いのです。