活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

「坐禅箴」水 清うして地に徹す 魚 行いて魚に似たり3

2023年04月30日 | 

カレイとヒラメは別の魚ですが人間(にんげん)がヒラメと、人間がカレイと名付けたので魚自身「我はヒラメなり」と「我はカレイなり」と名乗り出たわけではありません。

 

仮の名です。

 

自性は有(在)りません。

 

魚に向かって「貴方は魚に相違ないか」といったところで魚に分かるものではありません。

 

只、一切の諸相は解脱の相なのです。

 

魚と云うから魚です。

 

魚に似たり、だから魚を解脱しているのです。

 


「坐禅箴」水 清うして地に徹す 魚 行いて魚に似たり2

2023年04月28日 | 

「魚に似たり」といえば魚にあらず、「魚行いて」は魚です。

 

ですから「魚にして魚を解脱す」ということです。

 

人は何処から来て何処は行くのでしょうか。

 

「人は人に似たようなもの」です。

 

魚に自性は有(在)りません。

 

魚という名を付けて通用しているから魚といいますが、魚には自性が無いのです。

 

 


「坐禅箴」水 清うして地に徹す 魚 行いて魚に似たり1

2023年04月26日 | 

「水清うして地に徹す」とは、一点の汚染も無く清中の清ということです。

 

「魚 行いて魚に似たり」とは、魚の実体なくしてものに衝突することもなく、魚の自己を見ない自在の境界を指したのです。

 

身心脱落の境界です。

 

六根が六塵に奪われない境界です。

 

ですから、「人 行いて人に似たり」ということも出来ます。

 

人という実体が無いから生まれると死ぬ、死ぬと思うと生まれるのです。

 

かくして「無始無終」です。

 

何と自在なものではないでしょうか。

 

「似たりというのは「無自性空」に当てはめることが出来ます。

 


「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす6

2023年04月24日 | 

「縁に対せずして照らす」の「照」は、縁に対せずを照とするのです。

 

「縁は縁なり」です。

 

「縁是れ照なるが故に」です。

 

「対せず」とは「徧界(へんがい)嘗(かつ)て蔵(かく)さず」です。

 

何物も包み隠すことはないということです。

 

真実は至る所にあり、ありのままの姿で現れているといういうことです。


「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす5

2023年04月22日 | 

「事に触れずして知り」の「知」は覚知ではありません。

 

覚知は小量です。

 

了知の知でもありません。

 

了知は造作です。

 

ですから「事に触れずして知る」のです。

 

「事に触れずは知」なのです。

 

その「事に触れず」ということを宏智(わんし)正覚禅師は、「明頭(みょうとう)に来たらば明頭に打し、暗頭に来たらば暗頭に打す」と。

 

また「坐破す 嬢生皮(じょうしょうひ)なり」と、いっています。

 

「嬢生皮」とは母親から生まれたままの人ということです。

 

つまり生まれたままの人に成り切って坐禅に徹しなさいといっているのです。


「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす4

2023年04月20日 | 

宗教の第一義は只その物のみに成ることです。

 

「知は知なり」です。

 

「知の外に知なきが故に」です。

 

「単」は「正(しょう)」です。

 

「正」の字を分析すれば「一(いつ)に止まる」です。

 

死ぬる時は生を見ず、死ばかりにして生を見る暇はないのです。

 

「朝顔や その日その日の 花の出来」と。


「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす3

2023年04月18日 | 

坐禅は坐禅より外に知るものはないのです。

 

「坐禅は坐禅なり」です。

 

外に知る者があれば、これは坐禅ではありません。

 

生は生の法位にして、盡天盡地の生なのです。

 

死は死の法位にして、貫古貫今の死なのです。

 

ですから仏祖の生死を見ることは、春の百花を見る様なものです。

 

道歌に「おもしろや 散るもみじ葉も咲く花も おのづからなる法(のり)のみすがた」とあります。

 

花は咲く時、咲くと言わず、散る時は散ることを知らないのです。

 

生は生の生にして、生の外に生なしなのです。

 

「空即是色、色即是空」なりです。

 

 


「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす2

2023年04月16日 | 

「縁に対せずして照らす」とは、その物それがそのままはっきりしていて、疑わしいところの無い、ということです。

 

玉の自ら光を発して自ら照らすが如きものです。

 

「虚明(きょめい)自照心力(しんりき)を労せざれ」です。

 

相手なりに相手が無いことです。

 

どうして喧嘩ができるでしょうか、ということです。

 

「不回互にして成ず」と同じです。

 

「対せず」とは、対しながら対する自己が無いことです。

 

ここのところを道元禅師は「一方を證すれば一方は暗し」といっています。

 

「暗し」とは同化ということです。


「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす1

2023年04月14日 | 

「事に触れず似て知る」とは「事その物に成る」ことです。

 

事、即ち、知です。

 

知るの外に知るものが無いのです。

 

「真知は不知なり」です。

 

相手が無いから知り様がないのです。

 

つまり、「事実は真理の證明者なり」です。

 

道元禅師の歌に「聞くままにまた心無き身にしあれば、おのれなりけり軒の玉水」と。

 

明らかに聞くばかりです。

 

これを「真に知る」というのです。


「坐禅箴」残り物5

2023年03月20日 | 

「委」は頓なり、「頓」は壊(え)なり。

 

「壊」は  ”ヤブレル” または ”クズレル”と読みます。

 

その物それに成り切って、成り切るというものも無くならなければなりません。

 

その物に成ってその物を「證せなければ」いくらのべつ幕なしに喋っても駄目なのです。

 

「委」の字の真意義は説けば、手付かずです。

 

「そのまま」というのも及ばずです。

 

除くものがない、壊すものがない、本来の極浄に成ることです。

 

その間に認識の入る隙間はありません。

 

認めれば妄想です。

 

その物に成ることです。