活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

禅の特色1

2016年10月31日 | 

禅宗の教えは、「おシャカ様の教えの中」 の 「禅」 「禅定」 を以って

修行の方法としている教えです。

 

禅の特色は 「印可證明(いんかしょうみょう)」 にあります。

「以心伝心(いしんでんしん)」 とも云います。

 

「印可證明」 というのは、

「一器の水を一器に移すが如く」 という譬えがありますが、

外に一滴もこぼさずに水を別の茶碗(うつわ) にそのまま移すという事です。

 

おシャカ様の悟られた内容はそのまま、

二代目の 「摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)」 に伝えられ、

インド、中国を経て日本に入ってきたのです。

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仏、仏を知らず

2016年10月30日 | 坐禅

「何をしていても坐禅だ」 ならば、ことさら坐禅をする必要はないではないかと

言う人がいます。

 

「何を、どんな状態であっても、それが仏だ」 ならば、懸命に坐禅をして

自我を滅して、「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」 しようというような

そんなことをする必要はないではないかという人がいます。

 

「いつでも、どこでも、何をしていても、仏そのものだ」 ならば、

そういう余分なことは必要はないではないかという言う人がいます。

 

「いつでも、どこでも、三昧の中にある」 ならば、

ことさら坐禅三昧に成る必要はないではないかと言う人がいます。

 

しかし、「何をしていても坐禅だ」 といっても、坐禅を坐禅が知るわけがありません。

「坐禅は坐禅なり」 です。


仏みずから、仏と知ることは出来ません。

三昧を三昧と知ることは出来ません。

その通りです。

 

しかし、往々にして間違えると、「自分の三昧を自分で知っていたり」、

「すべてが仏だ」 といいながら、自分が仏ということを知っていたりするものです。

 

けれども、「仏が仏を知っている」 ということは、あり得ないことなのです。

「我の三昧、我また知らず」 が真の三昧です。

 

「自分の坐禅を自分で知らない、自分の功夫を自分で知らない」 のが、

真の功夫、真の坐禅、真の仏です。

そういう修行を続けていっていただきたいと思います。

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「ただ」の消滅

2016年10月29日 | 坐禅

だんだん坐禅のちからによって、静かになってきたことを

「ただに成った」 と間違えている人がいます。

 

もともと、悟りとか迷いというものがあるのではありません。

ですから、静かになってきたことを 「ただに成った」 というふうに錯覚を起こすと

そのままで止まってしまいます。

 

もうひと踏ん張りしていただかないと 「ただが消滅しない」 のです。

修行というものは、修行することによって、修行を消滅していくことです。

 

そうすれば、「何をしていてもそれが修行に成る」 ということです。

坐ることだけではありません。

「日常のことがすべて道になる」 ということです。

そこまで懸命に努力していただきたいと思います。

 

「ああなりたい、こうなりたい、こうしたい、こうでなければならない」 ということを

考えるから、それだけ 「苦」 が多くなるのです。

 

そんなことを考えずに、「ひたすらに坐って」 いただきたいと思います。

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修行の要訣2

2016年10月28日 | おシャカ様

何故、この身の中に自分を支配している何かがあると思うのでしょうか。

その思いが、「自我」 なのです。

 

「自我の迷執」 という言葉の意味は、「自我があるという思いに迷わされている」

ということです。

 

何処を探してもそんなものがあるはずがないのに、「ある、ある」 と

有限なものにしてしまっているのです。

 

この有限な自我というものを、「忘れさえすれば(見極めれば)」、

縁起によって出来ているすべてのものと、全く一つに成ることが出来ます。

 

そのことを、おシャカ様は

「天地と我と同根、万物と我と一体」

と、はっきりとお示しになって居られます。

 

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修行の要訣1

2016年10月27日 | おシャカ様

修行の要訣は 「自己を忘れる、自己の正体を見極める」 ことのみです。

自分という存在があると思っている間違いを、明確に、

「成る程、間違いだったか」 と、自分自身で納得することです。

 

私たち衆生のほとんどが、この身の中に自分を支配している

何かがあるように思っています。

しかし、この身の中に中心になるものは、何もありません。

 

即ち、人をも含めてすべてのものは 「地・水・火・風」 という

四大によって形成されているということです。

 

もちろん、「地・水・火・風」 という四大もまたそれぞれの因縁によって

出来ていますから、人をも含めてすべてのものに 「私(我)」 という

中心を認めることは出来ません。

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実現の時代

2016年10月26日 | 法理

只話を聞いただけ、本を読んだだけでは駄目なのです。

今は 「実地」 に向かって 「功夫(くふう)、修行」 しなければなりません。

理想の時代ではありません。

「実現の時代」 です。

 

「理想」 というのは、私たち衆生はもう判っているはずです。

最早 「実現の時代」 に出ているのです。

 

人を軽んじてはいけません。

元来軽んじようがないのです。

「常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)」 は、人を見ると

「皆仏なり」 といって拝んだといいます。

 

それを見た或る者が、おかしな坊主だと石瓦を以って追い払ったそうです。

それでも相変わらず 「皆仏なり」 といって拝んでいたという 「予言者」 です。

これは皆 「如是の法」 を知っているからです。

 

道歌に、

「わが袖の 珠と拾ひて 包まばや 打ちつけられし 石も瓦も」 と。

 

石を投げてみてくれなければ、「修養の道程」 が判らないものです。

投げても腹が立たないから、石は有難いでしょう。

そういう境涯にならなければなりません。

 

 

 

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実地の修行

2016年10月25日 | 道元禅師

道元禅師は、「禅」 とは 「自己をわするるなり自己をわするるとは

萬法(まんぽう)に證せらるるなり」 と、はっきりお示しになっておられます。

 

ですから、その現われ方が 「純一無雑 (じゅんいつむぞう)」 で

何物に当たっても親密でなければなりません。

 

ところが 「実地」 においては、中々そうはいくものではありません。

指導者はここに 「その病」 を指摘して、一句一句薬針を加えるのです。

 

本当に親しいものは何物が入って来ても犯されるものではありません。

先般、「放下着(ほうげじゃく)」 の稿で論及した、

「そんなに無いことが好きならば何時まででも担いでいなさい」

「厳陽(ごんよう)言下(ごんか)に於て大悟す」。

 

ここで初めてすっかり 「残り物」 が取れたとあります。

「無」 をもう一つ 「無」 で殺さなければならないところです。

 

「無」 というものが、まだ残っているのです。

まだ 「無に残り物」 があるということです。

 

「実地」 に当たって 「さっぱり」 しないのです。

丁度、魚を焼いてしまっても、なお匂いが残るようなものです。

 

一層の奮起を促して 「小成 (しょうじょう)」 に安んずるを誡められたのです。

 

道歌に、「蚊帳を出て また障子あり 夏の月」 と。

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修行の目標

2016年10月24日 | おシャカ様

おシャカ様は四十九年の説法において、

「私を信じなさい」

ということは一言も仰って居りません。

 

おシャカ様が常に言われたことは、

「法を信じなさい (法灯明)、自分自身を信じなさい (自灯明)」

ということだけです。

 

このことを 「成る程、そうだ」 と、“信決定(しんけつじょう)” しなければならないのです。

そうしないと、「修行の目標(道は自己の正体を見極めること)」 になりません。

 

しかし、現実には 「目標」 をおシャカ様の教えや、その他の中に求めて

しまうので、中々そうはならないのです。

 

「信じる」 ということは、「信」 が残っていてはいけないのです。

「信じる」 ということは、自分があって信じる訳です。

 

本当に何かが信じられたのであれば、「信」 というものがなくならないと

いけないのです。

「信」 というものが離れないといけないのです。

 

そのことはよく知っておいてもらいたいと思います。

 

「信じる・疑い」 というのは、あくまで 「人の考えの中」 のものです。

そういう 「信じる・疑い」 のなくなった状態を、「道」 とか、「法」 とか、

「今」 とか、「今の事実」 とか、「今の自己の様子」 とか言っている訳です。

 

 

 

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修行の第一歩

2016年10月23日 | 法理

「道」 というのは、私たち衆生の日常生活のすべてです。

しかし、それはそうなのですが、ただ問題にしてもらいたい所は

そこ(日常生活のすべて)に自分の介在があるかないかの一点なのです。

 

私たち衆生は、「自己の介在が入る以前」 からすでに 「道」 そのものに

成っているということなのです。

 

ですから、私たち衆生は、

「いつでも、どこでも、何をしていても、どういう考えを持っていても、

今すでに道の中にいる人、結果の中にいる人、結果の中で生活している人」

なのです。

 

「この事実を事実のまま」 に素直に受け取って行くことが「修行の第一歩」なのです。

 

そして、「道の本(もと)」 を考えていただきたいのです。

「道の本」 とは、最初があって終りがあるという意味の 「本(もと)」 ではありません。

 

「お父さんやお母さんが、この世に生まれていない時の自分は一体どこにあったか」

という意味の 「道の本(もと)」 です。

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修行の誤り2

2016年10月22日 | 

無我に成ろう、あるいは仏に成ろうとしている自分を

忘じた様子が 「真の無我、真の仏」 というべきなのです。

 

別の言い方をすれば、ものの見方や考え方を学ぼうとしている自分を

捨てた(忘れた) ところに、無とか空というものがあるのです。

 

そういうことを 「実證(事実においても、理論においても證明する)」 して

いくのが禅の修行です。

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