活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

無我とは3

2016年04月30日 | 仏教

「色(しき)」 とは目に見える形のあるもの、つまり 「肉体」 です。

「受・想・行・識」 は形のない 「精神作用」 をいいます。

 

つまり、「色・受・想・行・識」 がいつもひとつになって働いているのです。

「肉体と精神」 は 「不離不即」 だといわれていますが、もともと 「人」

でなかったものを、「ある時(物心がつく時)」 から 「人」 と認め

ないものをあると思って 「認識」 してきただけの話です。

 

ですから、「修行」 によって 「迷い」 を失くそうと思うのは間違いです。

 

「人」 は一定しない状態を 「不安」 という言葉で表現しています。

このように 「迷い」 や 「不安」 は実体のないものですが、

「迷いの法」 といい、「不安の法」 といい、みんな 「ひとつの法」 なのです。

 

それぞれ 「縁」 によって 「迷い」 となり 「不安」 となっているのです。

ですから 「人」 がつくったものではありません。

 

従って迷いは「迷いのまま」 にあり、不安は 「不安のまま」 にあるのが

「法」 にかなった状態です。

 

「法」 から離れようとするのは 「自我の働き」 だということを

よく知(識)っておいていただきたいのです。


分からないものが本当に分からなくなることが 「真の分かり方」 です。

人の考えの中でつくったものは、また分からなくなってしまうのです。

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無我とは2

2016年04月29日 | 仏教

このように、元来何も名付けられないものを 「不知不識」 に 「人(ひと)」 と認識し、

「周囲の仲間 (世の中・世間) 〈仏教では人間を “じんかん” と読みます〉」 を

「人間 (にんげん)」 と見るようになるのです。


ですから私たち衆生は 「この世界(人間 “じんかん” )」 に生まれたということを

自分では絶対に 「知(識)る」 ことが出来ないにもかかわらず

「私はここに存在している」

という認識を起こしているのです。


これを 「般若心経」 では、「色・受・想・行・識」 という言葉で説明しています。

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無我とは1

2016年04月28日 | 仏教

「無我」 というのは、「人」 というものを認めた上の言葉です。

そこで 「人」 の根源は何かということが問題になります。

 

特に私は、「人(ひと)」 という言葉を使わずに、「此の物」 が 「人(ひと)」 と

名付けれられるようになったのは、いつからかということを

考えてみたいと思います。

 

父母の「縁」によって月が満ちて 「此の物」 が出来上がりますが

卵子と精子で構成している物質は何かということは科学で

ずっと遡っても 「究極のところ不明」 です。

 

私たち衆生は 「不知不識(しらずしらず)」 生まれて、いつの間にか

「人(ひと)」 あるいは 「人間(にんげん)」 と名付けられていたという

まったく根底のないものなのです。

 

このことを私は 「不知不識生(ふちふしきしょう)」 と名付けています。


そして 「人(ひと)」 には、「認識」 というものが 「自然 〈仏教では“じねん”と読みます〉」 に

備わっており、この 「認識」 が自分と他というものを分けて見る働き、

つまり 「自我」 というものを形成するのです。

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「仏道」 再録2

2016年04月27日 | 仏教

似て非なる修行はたくさんありますが、「仏道」 というのは

「本来迷っていないことを知る」 ということ以外にありません。

 

迷いを失くそう、あるいは今の自分の状態は自分自身で見ても

あまりよろしくないから修行によってもっと満足出来るような

自分に変えていこうと考えてしまうと 「習学」 になってしまいます。

 

よく考えてみて下さい。

「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」 のうち、どこに満ち足りないところが

あるかということです。

 

足らないところはどこにもありません。

それでいて何か満足しきれないものがあるということになると

「妙体」 という以外、何も言いようがないということになるわけです。

 

人生の問題とか、人間(にんげん)関係の問題というのは、全部

「人(ひと)」 というものを 「土台とした考え方」 です。


ものが分からないとか、どうなるのだろう、というのは全部 「人」 という

ものを立てた上での考え方ですから存在すると思っているのが

間違いなのです。


間違いの上に立った考え方というのは全部間違いです。

そういう事を 「法理」 として十分納得した上で修行をして頂きたいと思います。


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「仏道」 再録1

2016年04月26日 | 仏教

「坐禅」 をして至るところは、「今の自分の様子」 です。

それを 「仏道」 といっています。

 

しかし、「仏道」 というと、どうしても自分以外のところに、

「道」 とか 「法」 というものがありそうな気がするのです。

 

それを、「迷い」 といっています。

本当は 「迷い」 というものは、どこにもありません。

 

関山国師は、

「本有円成仏(ほんゆうえんじょうぶつ)、何としてか迷倒の衆生となる」

という遺言を残されました。


私たち衆生が、いかに絶えず外に向かって目を向けているかということに

注意を喚起しておられるお言葉です。


自分自身で 「習学」 になっているのではないかということを、

本当によく注意して 「脚下を照顧」 していただきたいと思います。


「八万四千の法門」 も、歴代の覚者のお言葉も、それらはすべて

「月を標す指」 です。

それにしたがっていかなければ、どうしても 「月」 を見ることは出来ません。


しかし、見てしまったら、もう必要はないのです。

それが 「本来の自分に戻った」 ということです。


そういうことからも 「修行の行き着くところは、今の自分の様子

でなければいけないんだ」 ということを肝に銘じていただきたいと思います。

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物の発生2

2016年04月25日 | 法理

「物が在る」 ということは自分をこのように認めた様子なのです。

「自分というものを認めた その上」 から

「物が在るとかないとか」 ということなのです。


そういうような 「考え方」 ですから、全ての物をみんな

「人間(にんげん)の考え方」 へ、全部移行したのです。


「物心付いた途端」 にどんな人でも皆そうなるのです。

「識」 を認めたのです。

関係を皆認めたのです。


ですから、一切の動きを色々と名付けてみても

「自分の考え以外」 の何物でもないのです。


ことろが、「今の事実」 は考えではありません。

だからそれが分からないのです。

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物の発生1

2016年04月24日 | 法理

「今の状態」が本当に其の物に成ってしまうと

自分も何も彼もないのが本当です。


「空に成ろう」 と思ってみても成れるものではないのです。

「物の発生」、「自分自身の発生」 を

「我」 も 「不知(知らず)」、「誰」 も 「不識(識らない)」

のです。


「存在」 しないのなら別ですけれども、「存在」 しているのです。

それが、今 「斯の様に在る」 のです。


それですから 「知(識)っても、知(識)らなくても」 関係なしに

「斯の様に在る」 のです。


ところが私たち衆生はそれで 「満足出来ない」 のです。

何しろ、「生活(活動)」 していて、今、話しているような状態が

本当に違いはないのですが、「満足出来ない」 のです。


「満足出来ない」 のは 「子供の時分に物心が付いた」 からです。

「物心が付いたということ自体」 は、どうして 「物心が付いた」 のか

「理屈詰め」 しても始まりません。


何故ならば、「子供自体」 物心が付いたという 「自覚」 がないからです。

ですから、「無明の煩悩」 といわれているのです。


それからそれを 「土台」 にして、「発展(成長)」 して、生活(活動)している」 のが

私たち衆生なのです。


それで、「今」 になって疑問が起こって考え方を持って、考え方を整理

しようとするから、いよいよ分からないように成るのです。


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不知不識生(ふちふしきしょう)4

2016年04月23日 | 法理

私たち衆生は、いつでもどこでも 「縁」 とひとつに成っているのですが

そういう状態を知 (識) ることは出来ません。

 

「此の物(自分自身)」 は 「此の物(自分自身)」 に見える、聞こえる、

考える等、そういう働きがあることは何も知 (識) りません。

 

これを 「不識」 といっています。

「不」 という文字は 「打ち消しの助字」 ではありません。

「不」 は絶対という意味です。

 

つまり、「不」 とは 「自己のないこと」 をいいます。

「そのまま」 とみればよいのです。

 

「不知」 は 「知のまま」、「不識」 は 「識のまま」、因縁あるのみなのです。

 

「不知不識(ふちふしき)」 より 「不」 の字を取り除けば 「知識」

となるのです。

大きな知識です。

 

改めて、「新三法印」 として 「実相無相、不知不識生、本来成仏」

提示させて頂きます。

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不知不識生(ふちふしきしょう)3

2016年04月22日 | 法理

自分というのは、いつから自分になったのか、

自分で自分に問いかけても分かりません。

 

誕生日さえも、「知(識)りません」。

全部 「人間(じんかん)」〈註〉 によって、そのように教えられたのです。


※〈註〉広辞苑によれば、「人間(じんかん)」-人の住む所、世の中、世間


自分で考えてつくったというのはひとつも無いのです。

私たち衆生は 「人間(じんかん)」 によって育て上げられ(知識を得) てきた

自分を 「本当の自分」 であるかのように 「錯覚」 して振る舞っているのです。


「私は何年何月何日に生まれました、そして名前は○○です」 と。

しかし、良く考えてみますと、本当に自分で 「知(識)った」、

本当に自分で自分のことがわかっている人は一人もいないはずです。


何故ならば、他の知識によって育て上げられた自分と、自分だと思っている

自分との間に問題が生じているからです。


何も「知(識)らない自分」が 「今、始めて」 ものの本質、本来の自分というもの、

「自分自身で “これだ” というもの」 を体得しない限り、

どんなに克明に理論が完璧なものであったとしてもそれは

他人のものの見方、考え方というものを、自分のもののように

取り扱っているだけで、「究極(今の事実)」 までは届かないという

ことです。


そういうと 「究極(今の事実)というものがあるのか」 ということになりますが、

「いつでも究極(今の事実)」 だけなのです。

「今、今の連続」 だけなのです。


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不知不識生(ふちふしきしょう)2

2016年04月21日 | 法理

私たち衆生は、「自己とは何ぞや」 と問われれば

必ず 「迷う」 と思います。

 

何故ならば、

「自分自身(此の物)は、自分自身の発生(生まれたということ)した」 という

明確な “自覚” が無いからです。

 

先般も、「おシャカ様のお示し」(2016・2・27)で述べましたが

「必然」 として自分で生まれたことを 「知らない(識らない)者」 が

「知らない(識らない)」 なりに、こうして出て来て、

何も 「知らない(識らない)世界」 で 「不知不識(知らず識らず)」 に

はっきり生きているという 「今の事実」 があるのです。

 

「今の事実」 でないものはないはずです。

こんなに確かなものをもって 「生活(活動)」 しているのに

「自己とは何ぞや」 と問われればちょっと躊躇するのです。

 

自分のものを自分で善く信じてあげられない、こんな哀れなことが

あるでしょうか。

 

実は、ほとんどの人が皆そうなのです。

ところが、「仏教」 は幸いなことに、今のように迷わなくてもいい

自分を見つけるように出来ているのです。

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