「坐禅は坐禅なり その時」を別の言葉で「見性(けんしょう)」とか「身心脱落」とか「解脱」とか、そういうように説明しています。
一度、「その事実」にならないと「そのまま(今のまま、現在のまま)で善かった」という事にはならないのです。
いくら観念的にそうしても「自分自身が承知(満足)出来る訳がない」のです。
ですから「坐禅は坐禅なり」、そういう「坐」に徹して頂かないといけない訳なのです。
「坐禅は坐禅なり その時」を別の言葉で「見性(けんしょう)」とか「身心脱落」とか「解脱」とか、そういうように説明しています。
一度、「その事実」にならないと「そのまま(今のまま、現在のまま)で善かった」という事にはならないのです。
いくら観念的にそうしても「自分自身が承知(満足)出来る訳がない」のです。
ですから「坐禅は坐禅なり」、そういう「坐」に徹して頂かないといけない訳なのです。
坐るなら本当に坐らなければなりません。
「本当に坐る」とは、「坐るものが無くなる迄坐り尽くす」という事です。
人の考えが入ると、「只(ただ)坐る事」になります。
「只(ただ)」というのは「人の考え」です。
それだけ、「坐」というものに「人の考え、我見」というものがくっついているのです。
ですから、「只(ただ)坐ろう」という意識が添うのです。
それでは「本当の坐」には成りません。
「只(ただ)という人の考え、我見」を交えないように坐る事が「坐禅は坐禅なり」という事です。
ですから、「只(ただ)坐ろう」という意識が添うのです。
道元禅師は「本来本法性天然自性身(ほんらいほんぽっしょう てんねんじしょうしん)」(本来、今のまま、現在のままで満足に思うならば、何故歴代の祖師といわれる方々はご修行なさったのだろうか」という事について疑問を持たれたのです。
そして中国に渡り「身心脱落」をなさったという事があります。
この「身心脱落」というのは「ものに成り切って自分を忘れる」という事です。
「坐禅に成り切って坐禅に成る」ことを「坐禅は坐禅なり」と示しているのです。
「坐禅は坐禅なり」というのは「身心脱落」をなさった道元禅師のお言葉です。
ですから「身心脱落」を未だ経験していない人は、「坐禅は坐禅なり」という言葉を発する事は少々無理な話だと思います。
「私が坐禅をしている」という「”私”という介在がある」という事を知って頂かなければなりません。
「坐禅」というのは「坐禅に因って坐禅を完全に忘れ尽くすために坐禅をする」という事です。
「坐禅は坐禅なり」、極単純に「その事だけ」で足りるように務めて頂きたいと思います。
この事を「唯務(ゆいむ)」といっています。
「唯務」は坐禅だけのことではありません。
仕事においても、日常生活においてもそうです。
「そのものの為にそのものを行する」、「その事でその事が了っている(一切の意味付けや意義付けを行なわない)事です。
仏法(仏道)の真骨頂は、先ず「ものは一つ物である」という事です。
この事は是非理解して頂きたく思います。
私たち衆生は「分別」して「ものを二つに見る癖」が付いているのです。
「癖」というのは「我(が)、自我」というものです。
「癖と自我」は同じ物です。
「修行(坐禅)をする」とは、その「癖(自我)」を取る事です。
即ち「自己を忘ずる事」です。
ですから「今の事実(修行、坐禅)その物に成る」という事意外にありません。
道元禅師「坐禅箴(ざぜんしん)」に曰く「坐禅は坐禅なり」と。
「今の事実(修行、坐禅)その物になりさえすれば、ものは一つ物である」という事が、本当に明白(めいびゃく)に成ります。
それはそうだと思います。
「今の事実(修行、坐禅)」というのは「我(が)」というものも無ければ、癖(自我)も無ければ、迷いとか悟りとか、凡だとか、聖(しょう)というものではありません。
「人も法(道)も何も無い、只 今の事実(修行、坐禅)だけが有(在)る」のですから「今の事実(修行、坐禅)」に徹しさえすればたしかに「ものは一つである」という事が分かります。
「坐禅は坐禅なり」とは「坐禅の先生は坐禅である」という事です。
「坐忘して下さい」「坐り尽くして下さい」
「坐忘」とは「坐して坐る事を忘れる」という事です。
「坐禅箴」に曰く「坐禅を坐禅なりと知れるすくなし」と。
道元禅師の師、如浄(にょじょう)禅師のお言葉で「坐禅を坐禅とする人稀なり」とも述べられております。
お二人の真意は、「坐禅を手段や方法としてものを求める人」は多いけれども「坐禅が坐禅で了ってしまっている人は非常に少ない」という事です。
道元禅師の場合「自分というものを認めてしまった」ために、それが「無明」と成ってしまったのです。
「自分自身を看る」と「自分自身の動き」の中には大きく分ければ「思いの動き」と「機能の動き」というのがあります。
いわゆる「精神界と肉体の働き」です。
精神界の方がやっぱり厄介なのです。
機能の働きというのはそんなには難しくはないと思います。
否応なしにその時で終わってしまうからです。
どうしてもその時限りで終わらざるを得ないように出来ているのです。
ですけれども、この「六根の意(心)の働き」の方は、不思議な事にその時だけで終わっているはずなのに尾を引くのです。
それくらいで済めばいいのですが、思いがだんだん膨らんで自分の中にそれが実在しているように思うのです。
「縁」に触れて思いが出て来たと気が付いた時、行う事は一つだけです。
「思いを止めるだけ」です。
日常生活は次から次へと行う事があるわけですから、その思いにしがみついていたら置いていかれてしまいます。
「事実」とのギャップがどんどん出来てしまいます。
私たち衆生はそれで苦労しているのです。
例えばバレーボールを行っていて失敗したって球はどんどん動いていくわけです。
その時どうしたらいいか、と言っても何も条件はありません。
ただ球にどれだけ付いていくかということだけではないでしょうか。
プロの選手は失敗しようが何しようがその事は放っておいて「今、動いている球に付いているだけ」の練習をするのです。
この体も朝から晩までスポーツをしているようなものです。
「活動」しているという事はいってみればスポーツみたいなものです。
「修行(坐禅)」は止められる事ではありません。
「自分のこと」ですから、もし「自分はとてもそういう修行(坐禅)というような事は難しい事だから止めよう」と思う人は自らの目を閉じる事、自らの耳を塞ぐ事になります。
「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」を全部閉鎖してしまう事になります。
そういう事を考え合わせて「修行(坐禅)というものは止められるものではないんだ、しかも手段や方法を用いられるものではないんだ」という事を思って頂きたく思います。
「修行(坐禅)」が出来るとか出来ないとか、分かるとか分からないとか、是非善悪とか、そういうものは出て来てはいけないのです。
本当に「修行(坐禅)だけに成る」というように務めていただきたく思います。
「修行、坐禅、法、道」という言葉にとらわれると、何か特別な事をするように考えがちですが、そういうものではありません。
「六根の働き」を全て「眼」という言葉で表現すれば「この物(自分自身)の働き」は「眼 その物」です。
「眼」はきれいだとか汚いとか判断をするものではありません。
「只(ただ)映す(見る)」だけです。
耳も鼻も舌も同様です。
あらゆる物が「六根の働きを縁にしている」のです。
ただ「自分の心の中」で好きとか嫌いとか「分別」を起こすのです。
ですから「意(心)」は分別を起こす道具にすぎないのです。
「自分自身(このもの)」は「一切の有形無形の物(このもの)」を正しく見る(映す)「眼 その物」だということです。
「了」というのは、もう終わってしまったものということです。
例えば、行き着くところまで行ってしまったということです。
一例を挙げれば、人は水に中にあって、水を探すという愚かな事はしないはずです。
水は、「水だ」とは言いませんが多くの人が水というものに使われるということがあります。
「不思議」なことですかれども、水の中にあって「これが水だ」というようなことを言えば、水に使われるということになります。
本来すべてのものは了(終)わりの中に有(存)り、自分で「了(終)わったんだ」などと言うのはおかしいといっている言葉です。
これは、「坐禅は坐禅なり(修行は修行なり)」と同じです。
「坐禅(修行)をしながら、私は今、坐禅(修行)をしています」というのはおかしいことです。
本当に「坐禅は坐禅なり(修行は修行なり)」に徹していれば(三昧に成っていれば)、「私は今、坐禅(修行)をしています」と表現することは、坐禅(修行)に使われているということになるのです。
それでは、坐禅(修行)を説明している人だけが「坐禅(修行)の外に有(在)る」ということです。
ですから、「坐禅(修行)」に使われなくなれば「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)が坐禅(修行)だ」という「何時何処で何をしていても坐禅(修行)だ」ということに成らないといけないのです。
趙州和尚はある時に修行僧たちに「各自に禅あり」と垂示(すいじ)をされました。
「皆さん方は今、なさっている事がそれぞれみんな禅ですよ」と。
「又、各自に道あり」そのものが道ですよ、と。
そこでたちまち「如何なるか是れ禅、如何なるか是れ道」と尋ねる人があったならば、あなた達はその人に対して何と答えるかと。
「既にそれぞれの人が禅であり、道であり、法であるならば、今更答える必要があるでしょうか」と修行僧は答えました。
この事は「落とし穴」なのです。
どういう「落とし穴」かというと、答えている人自体に問題が在る訳です。
それぞれの人がみんな禅、法、道であると今、聞いてなるほどとうなずいた訳です。
そして又、同じ人から「では、どのように言ったら善いのか」と尋ねられたら「既にそれぞれの人が禅であり、道であり、法であるならば答える必要がないじゃありませんか」と。
この事を「鑑覚の病」と言っています。
「肯心自ら許す」と同じ事です。
なるほど、修行僧は「既にそれぞれの人が禅であり、道であり、法である」という事を知(識)ったために「なぜそういう話をする必要があるのですか」と思ったのです。
ですから、「自分で言っている事自体」が「禅であり、道であり、法である」という事を知(識)らないのです。
そういう大きな「鑑覚の病」というものに自分で気が付かなければいけません。
そうすると趙州和尚が「汝が遊魂(ゆうこん)の為に」、すなわち「お前の魂は何処かに遊びに行ってしまっているぞ」と。
すると又、この修行僧は「未審(いぶかし)何としてか人の為にせん」。つまり「それでは如何したら人の為に宜しいのか」と尋ねました。
「みんなそれぞれ持っているものならば、人の為にする事は何も無いじゃありませんか」と。
すると趙州和尚は何も話さずに身を退いて帰って行かれました。
この修行僧の問いに対して「禅道の真っ只中に居るので話を弄(もてあそ)ぶ必要は無い」と身をもってお答えになったということです。
「問う者は知らない、知る者は問わない」という事で、道の中にありながら道を探すというような愚かな事をしてはなりませんよという意味での話頭(わとう)です。
※「鑑覚(さとりをかんがみる)」とは、覚りと比べ合わせて考える事です。
「仏には成り易いけれども魔には成り難い」というお言葉があります。
「六道(りくどう)の世界」、即ち天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の様な世界に入れないで何時でも高い処にしか居られない人を言います。
先般同様に「平等一面に陥っている」という事で、そういう「病」が一番治し難いので注意しなければならない所です。
昔は牛や馬を使って田を耕して稲を植えたものです。
ですからとにかく「木人石女(ぼくじんせきにょ)」に成って「祇管(ひたすら)に働く、務める」ということが必要なのです。
「働く」という字は「人偏(イ)に動かす」と書きます。
傍(はた)を楽にするという事から「はたらく」なのです。
別の言葉で言えば「菩提心を尽くす」ということです。
「人の為に働くほか何にも無い」のです。
特に宗教者は「衆生を導く」という誰にも出来ない仕事をしている訳ですから、他の事にあまり気を回さない様にして衆生を信仰に導くことに精進して頂きたく思います。
不尽
私たち衆生の一人一人がどんな考えを持って、どういう坐禅の状態で在っても、みんな「今」の事です。
何も無い処に居ながら、何かに偏っていたり、「位(くらい)”場所、地位”にいる」という事ですから、そのほかに求める事がないようにしないといけないという事です。
「祇管(ひたすら)に坐る」という事が間違えられて、「祇(只)管打坐(しかんたざ)」という一つの「坐禅形」を認めるようになってしまいました。
そして「悟るものも、得るものも在ってはいけない」という「無所悟、無所得」が強調されその結果、
「祇管(ひたすら)に坐る」という事からもう一つ意識が沿って「只管打坐をすれば善い、坐れば善い」というようになってしまいました。
この事はあくまで「結果から見たお言葉」です。
確かにその通りなのですが、残念ながら「只(ただ)」というものが如何しても残って行き詰ってしまうのです。
「只、只」とそれだけなのです。
それでは、いわゆる仏教で言う所の「空」でもなければ「無」でもありません。
「只というものを自分で取り扱って何時もきれいな処に居る」という事になります。
この事を「浄潔(じょうけつ)の病」と言います。