活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

徹頭徹尾(真の満足)

2016年07月31日 | 法理

「徹頭徹尾」 という言葉があります。

 

「時間以前」 「人の生まれる以前」 「物の生ずる以前」

そういう「事実」 を、「今」、「ここにおいて」、他で求めるのでは

ないのです。

 

「今」 ここにおいて、そういう 「今の事実」 がきちんとしている

ことを分かって頂きたく思います。

 

「今の事実」 に徹してみて初めておシャカ様の教えという

ものの様子というものがうかがえるのです、また

自分自身にも本当に満足が出来るのです。

 

そこまでいかないと、どうしても「真の満足」の出来る

ということはおぼつかないのです。

 

自分のことですから、本当に自分で必ず満足のいくものです。

自分自身に自分自身が聞いてみて、はっきり言い切れる、

そこまで自らで本当に 「功夫(くふう)」 してもらいたいと思います。



菩提を親証す

2016年07月30日 | 法理

「菩提を親証す」 とは、何か。

 

菩提というのは道です。

菩提は道それ自身の姿であることを親しく

自分で悟ることが出来るということです。

知ることが出来るということです。

 

こうなってくると、はじめて落ち着いて 「坐禅」  が

出来るのです。

 

それで、落ち着いて 「坐禅」 が出来れば出来るほど

一切のものを無条件で、それを承認しうるのです。

 

「何ともない」 のです。

そういう生活者に成り得られるわけです。

 

まずは、そういうふうなところまで最初に行く必要があるのです。

 


煩悩とは

2016年07月29日 | 法理

内からも外からも動いているその天然なものを、

天然のまんまに、かまわずにおくと自然(しぜん)に

「煩悩」 といわれるものがなくなります。

 

人間(にんげん)の上に現れてくる一切の、

それが善くても悪くても、そういう様なものを自分で

善いとか悪いとか、問題にする気持ちが動いてそれに

取り付いていく、それを 「煩悩」 といいます。

 

「煩(わずら)う」 のです。

煩い悩むのは、それからです。

 

それで、そのまんまであれば、別に悩みはないのです。

そうすると、「煩悩」 といっていたものが 「煩悩」で ないことが

分かるので、自然に落ち着くのです。


善悪は時なり

2016年07月28日 | 語録

道元禅師の御言葉に 「善悪は時なり、時は善悪に非ず」

というのがあります。

 

人及び一切のものには、善悪というものはありません。

善と思う時があり、悪と思う時があるということです。

 

人は一度に 「二つの考え」 を思うことは出来ません。

ですから、「善」 と 「悪」 と二つの考えを一度に思うことは

出来ないのです。

 

先ず 「善(悪)」 と思い、その 「善(悪)」 という考え方が

なくならなければ 「悪(善)」 と考えることは出来ません。

 

その 「善(悪)」 と思ってから 「悪(善)」 と思うわずかの間に

ものすごいスピードで移り変わっているのです。

 

普通では考えられないかもしれませんが、瞬間に

「自我」 というものが立てられるわけです。

 

これはすべて 「識の働き」 によるものなのです。


今の私たちの様子

2016年07月27日 | 法理

教学によってものと一つに成るということ迄は説明出来ます。

おシャカ様の教え以外のものでも何かと一体に成る、

成らなければ安心(あんじん)はないであろうということはわかります。

 

「結果」 が一つに成っても、何か(空・無・法・道・悟り)を

「自覚」 する者があれば、そのものだけ、

「一つに成り切れていない」 ということです。

 

そこがもう一つの物を落とさなければいけないところです。

そうしないと、「真の身心脱落、脱落身心」 には成りません。

 

その全てが落ち切った状態が、紛れもなく 「今の私たちの様子」 なのです。


此の物

2016年07月26日 | 経典

有名なお経の中に、こういうお言葉があります。

「此の物無くんば 彼の物無し

此の物有るが故に彼の物有り」

と。

 

私たち衆生は、いつの間にか不知不識に

「此の物を自分だと認識」 してきました。

 

しかし、「此の物」 は自分ではありません。

「衆生(しゅじょう)」 なのです。

 

「衆生」 とは、「六道(りくどう)」 を輪廻する存在なのです。

 

「此の物」 は 「象徴」 にすぎません。

そこで、「此の物という象徴」 と 「本来の自己」との

隔たりを失くさなければなりません。

 

問題は 「すでに一体であり、一つのものであった」 という事を

「自覚」 することです。

 

私が 「目醒める」 ということではありません。

「此の物」 が 「縁其の物になる」 ということです。

 

おシャカ様の最後の説法に次のような一説があります。

 

「我れ今滅を得(う)ること 悪病を除くが如し

此れは是応(まさ)に捨つべき罪悪の物なり

仮に名付けて身と為す」 

と。

 

この中で一番大切なことは、「仮に名付けて身と為す」 という御言葉です。

ですから 「此の物」 を名付けて 「この身」 と称するのです。


迷いの始まり 2

2016年07月25日 | 道元禅師

「ただ事実が事実として先に(考え方より先に)ある」 のです。

必ず 「事実の方が先にある」 のです。

「ないもの」 は問題に出来ないのです。

 

「あること」 が先にあって、そして 「あること」 に対して

「何故(なにゆえ)」 と行ったからです。

 

これが考え方です。

ですから、「本来の面目」 としての本質的なものが、

ちゃんとあるのです。

 

ここに着目していただかなければなりません。

ですから 「香厳(きょうげん)」 という和尚さんは

ただ、「カチッ」 といった 「音」 を聞いただけで

「無生」 を徹見したのです。

 

それは、そのはずです。

「事実」 を御覧下さい。

 

「車の音」 は考える以前に 「事実」 としてちゃんとあるということです。

ただ 「音」 がしただけで、その 「音」 が良いとか悪いとか

分別(考える) するところから迷いは始まるのです。

 

良いとか悪いとかではないのです。

ただどんな 「音」 でも、「その音其の物が在った」 だけなのです。


迷いの始まり 1

2016年07月24日 | 道元禅師

「この法は人人(にんにん)の分上ゆたかにそなはれりといへども

いまだ修せざるにはあらはれず證せざるにはうることなし」

という道元禅師のお示しがあります。

 

「そなはれり」 とは言うものの

「修せざるにはあわはれず證せざるにはうることなし」

というのは、自分の今の姿には違いがないのですが

人間(にんげん)は今までの習慣で、つまり、考え方の

習慣がついているのです。

 

「考え方」 としての生活する習慣がついているので、

この習慣をしばらく止めてみると、

「実体が見えてくる」 ということなのです。

 

例えば「あれ(外の車の音)」一つでも思いの見方と

事実との違いがあるということです。 

「車の音」 を聞く時にも 「車の音だ」 という思いの見方を

しますが、「事実」はこれは「車の音」でも何でもないのです。

 

ただ、「これ(耳)」 と 「あれ(音)」 との関係でそういうことが

行われているだけなのです。

 

従って、これは思いの見方とは全然違うのです。

ここのところをよく 「知(識)って」 もらわなければ

いけません。


妙体 2

2016年07月23日 | 

分かってみれば、迷っていることそれ自体が「妙体」なのです。

「事実」 なのです。

 

「事実というのは、真理の証明者だ」 と言われた人があります。


事実でありながら(自分のことでありながら)それがどんなにしても

肯定出来ないわけです。

 

肯定出来ないということもちゃんと分かっているわけです。

その上に何が分かりたいのかということになるではないですか。

 

分かってみれば迷いのままにすべてそれで事が済んでいるのです。

「事究竟(じくぎょう)」 といいます。

 

「戒」 のほうでいえば 「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)」 と言います。

全部それぞれのままに 「脱落している」 ということです。

 


妙体 1

2016年07月22日 | 

「妙体」 というのは、「摩訶不思議(まかふしぎ)」 とか色々名前がついていますが

固まりがないものということから 「認めるものがない」 ということをいっています。

 

「法」 としては、そういうものです。

しかし、「人(ひと)」 ということからいうと、どんなにしても

「ものがない」 ということは信じられないものです。

 

ですから、「法」 を求める上では三つの条件として

「大信根・大疑団・大奮志」 が欠かせない要訣だといわれています。

 

「大信根」 というのは、「衆生本来仏なり」 というのに、

「何とかして迷倒の衆生となる」 といわれた関山国師の御言葉が

生きてきます。

 

本来、仏であるといわれたのに何故(何とかして)、ここにひっかかるわけです。

「何とかして」 というと、何かありそうな気がするものです。

それでまた探し求めることになるわけです。

 

「迷倒の衆生となる」 というのは、「迷い」 とは何かということです。

何に迷っているのか、見るもの、聞くもの、感じることはちゃんと全部

「迷い」 から離れていることは 「知(識)って」 いるのです。

 

自分で迷っているということさえも、自分自身で 「知(識)って」 いるのに

決まりがつかないのです。

 

実に 「不思議」 なものです。