活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

己れを捨てて1

2018年04月30日 | 仏教

「発願文(ほつがんもん)」という道元禅師のご著書の中に

「世法を捨てて仏法を受持せん」という一節があります。


これはどういうことであるかというと、「己れを捨てて」ということなのです。


己れを捨てて仕事に従事するのです。

これがいわゆる「仏法」なのです。


「世法を捨てて」とは「世法のままを奉ずることが仏法」なのです。


「般若心経」という時には、既に「般若心経」です。

己れは無いのです。「仏法」なのです。


冷暖自知2

2018年04月29日 | 法理

私たち衆生は、日常生活が全て「言葉(解釈・理解)」で解決されているかの

ごとくに「錯覚」を起こしています。


そのため「今の事実(法・道)」という存在があることを分からないまま

過ごしているのが実情なのです。


「今」と言った瞬間には言葉は残っていますが、実際のものは何も残って

いません。


そのぐらい「今の事実(法・道)」は「無常」であり「空」なのです。


「今の事実(法・道)」を「事実の説明」ではなくて、どうしたら相手に理解

してもらえるのか考えなくてはならないところです。


※一弾指に六十五回の刹那、六十五回の刹那の間に九百回の生滅が繰り返されて

居ると仏教では説いています。


冷暖自知1

2018年04月28日 | 法理

「火は熱い、水は冷たい」というお示しがあります。


「火は熱い」と言っても、唇は焼けません。

喉が渇いた時に、「水」と言っても喉の渇きはいやされません。


何故なのでしょうか。

それは「事実」と「言葉」の間に大きなズレがあるからです。


「冷暖自知」というお示しがあります。

その中の「自知」という言葉は、自分がものを知るということではありません。


水の中に手を入れれば冷たいと思います。

しかし、自らが「水・そのもの」に成れば「水」は冷たいものでも熱いものでも

ないということなのです。


「火」も同じです。


私たち衆生は、いつでも後から認識したことを「事実」のように思ってしまうのです。

しかし、「今の事実(法・道)」と「言葉(教え)」の間にはズレが存在するのです。


現実世界を考える4

2018年04月27日 | 法理

有限でなければモノは顕れません。

モノに顕わすと有限になるのです。

念は語ることによって現れるのです。


「一に一足す二の世界」は「現実世界」です。

それは平面の見方、考え方です。

道元禅師は「一刀両断」に対して、「一刀一断」と説いています。


悪を除いて善ばかりの世にしようとする行為は「悪そのもの」です。

悪あればこそ善が善として救われ栄えるのです。


善あればこそ悪は悪の御用を成し得るのです。

善のみでは力として進展せず無と同じことになります。


悪のみにても、また同様なのです。

「現実世界」では、「同一場所、同一時間内に存在するもの」も、その内容の

相違によって感覚の対象とならないから、無いのと同様です。


左手なき右手はなく、右手なき左手はありません。

左手は右手に因って生き動き栄えるのです。


「善、真」なき「悪、偽」はなく、「悪、偽」なき「善、真」は

有り得ないのです。


現実世界を考える3

2018年04月26日 | 法理

善人の住む処は悪人の休む処なのです。

現在のあなたの置かれた環境は、あなたが作り上げたものです。


ですから、度を過ぎると過ぎるものが生まれて、生んだあなたに迫り来るのです。


悪を無くすれば善のみの地上天国が来ると思って、悪を無くすることに努力した結果、

今日の大混乱を来したのです。


人間(にんげん)の考えで「戒律と秩序、法則」をごっちゃにしているのです。

「生前、生後、死後」は一連の存在であり、そこには存在以外の何ものもないのです。


人間(にんげん)の智の中には善も悪も入ります。

人間の自由はそこにあります。


自由が無ければ発展はありません。

逃げ道をつくれば迷いの道に入ってしまうのです。


現実世界を考える2

2018年04月25日 | 法理

結論からいえば、もともと「現実世界」には、「善悪」と呼ばれるもの自体が

存在しておらずそこに在るのは「立ち位置の違い」だけです。


争いは「正義」がぶつかり合う時に起きます。

「聖戦」は「善」として存在が可能なのでしょうか?


善を思い、死を思うことは、死を作り生を作り上げることになるのではないでしょうか?


人間(にんげん)は善と悪の両面に通じ、両面で生活することになるのです。

そこに人間としての「尊さと悲しさ(哀しさ、愛しさ)」が生じて来るのです。


現実世界を考える1

2018年04月24日 | 法理

「神道(しんとう)」に曰く、

一切の未来も一切の過去もすべて現在なり、「中今(なかいま)」なり。


今は今の姿が真実です。

あるものそのものが真実です。


自分に降り掛かって来る一切のものは最善のものなのです。

ですから如何なる悪いことも最善のものなのです。


例え貴方が悪いことと思うことも、それは「今の事実」ではないでしょうか?

「今の事実」に善悪はありません。


人間(にんげん)はいつも善と悪の中にいるのですから、善のみということもなく

悪のみということもないのです。


例え如何なる「現実世界」も、「その今の事実」を受け入れ、喜ばなければ

ならないのです。




道について考える4

2018年04月23日 | 道のこと

人は迷うことなく自分の道を自分で進み、その与えられた最もふさわしい世界に

落ち着くのです。


何処で何をしていても「道」さえ踏んでいれば栄えます。

統一の無いところに力は生まれません。


想念は形式を因って初めて力が出るのです。

宿命と運命は同じではありません。


「学、我(が)」を出すから行き詰まるのです。

凸凹が在るからこそ力が現われるのです。


信念だけでは必ず行き詰まります。

何事に向かっても、まず感謝しなければなりません。


喜びより離れたる信仰はなく、真理はなく、生命はありません。

喜びは行為となり、行為せざる喜びは真実の喜びではありません。


見えないものを掴まなければなりません。

そこから正さなければ外側からばかりでは何にもなりません。


「道」とは「法則なり、秩序なり」。


道について考える3

2018年04月22日 | 道のこと

悪あればこそ善は善として使命し、醜あればこそ美は美として生命するのです。

悪を浄化して心用の悪とし、必然悪として生(活)かすのです。


悪は悪にのみ働きかけ得るのです。

善に向って働き掛けても善はビクともしないのです。


ビクつき悪に引き込まれるのは、己れ悪が在るからです。


天国を動かす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。

地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故であるのです。


大いなる平衡が保たれている故に、呼が強く成れば吸も強くなり、吸が長くなれば

呼もまた長くなるのです。


地獄なきところに天国はなく、天国を思念するところに地獄を生ずるのです。

善を思念するところに悪を生み出すのです。


道について考える2

2018年04月21日 | 道のこと

動かざる善は善ではなく、進展せぬ真は真ではないのです。

色眼鏡で見るから違ったことに見えるのです。


智の中に悪を取り入れるゆとりの出来ないようでは「誠道」は成就出来ません。

智の中にはすべてを取り入れて理解できるようになっているのです。


愛から離れた理解はなく、善から離れた真理はないのです。

種なくては芽は出ない道理なのです。


一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂点です。

これが「公平、”差別(しゃべつ)”であり平等」というものです。


茄子の種に瓜は生らないのです。


考えは人の迷いです。

考えればますます分からなくなるのが道理です。


時過ぎて種を蒔いても芽は出ないのです。

人心(ひとごころ)で急いではいけないのです。


明日のことに心を使わない、しかし心配りは必要なことです。

取り越し苦労はする必要はありませんが、しかし、心配りはしなければなりません。


存在はそれそのものです。

なにものも自らは存在しません。