いつまでも修行の状態が全く同じであるならば、
是は単なる修行の繰り返しということになります。
「因果歴然(いんがれきねん)として私(わたくし)なし」
というお言葉がありますが、今の様子、今の修行の様子は
その通りの 「結果が出ている」 ことです。
「私なし」 ですから、今の状態を 「良い悪い」 をくっつけてみては
いけないのです。
それぞれ、それで 「一杯一杯」 なのです。
いつまでも修行の状態が全く同じであるならば、
是は単なる修行の繰り返しということになります。
「因果歴然(いんがれきねん)として私(わたくし)なし」
というお言葉がありますが、今の様子、今の修行の様子は
その通りの 「結果が出ている」 ことです。
「私なし」 ですから、今の状態を 「良い悪い」 をくっつけてみては
いけないのです。
それぞれ、それで 「一杯一杯」 なのです。
自分が無くなったと同時に 「成仏(じょうぶつ)」 するのです。
「成仏」 というのは、「其の物と一つに成った時」 のことを言っています。
必ず自分が無くなれば 「成仏」 を体得することが出来る訳です。
そういう 「成仏」 が無いのは 「ものと一つに成っていない」 ということなのです。
まだ 「自分というものの働きがある」 というふうに反省していただければ
修行が進むということです。
そういうことは十分、古くから修行している人は、よく分かっているはずです。
よく分かっていても 「成仏」 出来ないということは 「破戒」 ということです。
「破戒」 とは戒を破るということです。
ですから、自分の考えを働かせて修行しようと思えば、
それだけ 「戒を破る」 ことになるのです。
「戒が破れるから成仏が無い」 ということなのです。
みんな一つのことです。
務めて精進していただきたいと思います。
「祇(只)管〈ひたすらに〉坐る」とは、自分の考えというものを
一切起こさずに坐ることです。
「只(ただ)坐る」、「祇〈只〉管打坐(しかんたざ)」といいます。
最後に残るのは、「只(ただ)」、「祇〈只〉管(しかん)」が残るのです。
「只(ただ)」、「祇(只)管」という我見が残るのです。
「只(ただ)」、「祇(只)管」という「法」が、「道」が残るのです。
戒律からいえば、「戒を傷つけている(破壊)」ということになるのです。
それらは、皆、人間(にんげん)の考えから出て来たものです。
「見惑」、「思惑」というものです。
別の言葉で言えば、「感情の迷い」、「理性の迷い」というものです。
ほとんどの人が、おシャカ様の教え、歴代の覚者といわれる方々の
教えを理解し、そいういうものの中で修行しているのです。
なかなかそういうものが取れないということです。
たとえ本当に理解し尽くされたところからであっても
「理解するだけ余分だ」ということがわからないのです。
「忍」 という字は、「刃の下に心」 という字を書きます。
この娑婆世界は、「忍土(にんど)」 といって我慢をし、辛抱しなければ
一時として生活出来ていけない世界なのです。
それをじーっと守りなさい、そのものに成り切りなさい
ということです。
それを 「戒を守りなさい」 といっているのです。
ですから、「坐禅功夫をして煩悩を滅して、一所懸命に精進をして
悟りを開こう」 というようなことをチラッとでも自分自身で考えたならば
それは戒を傷つけた人(破壊)、戒を汚した人、という謗りを受けなくては
ならないのです。
それほど、私たち衆生一人一人は、皆すべて戒の中にある人なのです。
「戒」 というと、「守らなければならないといわれている戒」 がありますが
すべてのものが成仏している、仏様になっている、脱落をしている
その人が、「何を守らなければならないのか」 ということです。
「守るべきもの」 があってはいけないのです。
すでに十分守り尽くされている、それが今の
「ものと一つに成っている状態」 ということです。
「守る」 というのは、そういう 「一つに成っている状態に手を付けてはいけない」
ということです。
今のそのものに、一つに成っている状態ですから、守るべきものも
放さなければならないものも、なんにもないのです。
戒について1 2015・4・47
戒について2 2015・4・28
お粥をいただくことは
一、顔の色つやがよくなる
二、気力が充実する
三、健康になる
四、寿命が長くなる
五、体が安楽になる
六、言葉が清くさわやかになる
七、前に食べたものが残らず、胸やけしない
八、お腹がなんとなくすかない
九、喉の渇きが止まる
十、便通がよくなる
という十の利益(りやく)があるということです。
昔は、相撲取りの力士は、本場所が始まると必ず
お粥を頂いていたと聞きます。
「永遠の命」 をどれだけ追い求めても実体のないものには生も死もありません。
実体のないものがいろいろな 「縁」 に因って 「離合集散」 を繰り返しているのが
人間(にんげん)を含めた 「一切のものの現象(法)」 なのです。
「科学」 はヒトを含めた物質の存在を認めるところから出発しています。
したがって、「実体のないものを、あると思う心の迷い(自我の迷執)を
解決すること」 は絶対に出来ません。
それどころか、地球上のあらゆる生物をヒトが生存するための
手段や実験材料と決めつけて、環境破壊や遺伝子操作等々を
繰り返している様子は取りも直さず、我々自身を破壊し続けて
いるのだということに気が付かなければなりません。
「永遠の命が欲しい」 という人がいます。
それは突き詰めれば 「生老病死」 から解放されたいという
「我の欲望」 なのです。
おシャカ様も今から二千数百年前に 「生老病死」 の苦しみから
解放されたいという欲望の為に、国を捨て、妻子を捨て、
一切のものを捨てて、大変な 「苦行(くぎょう)」 をなさいました。
何故そんなに苦行をなさったのかというと、人の認識(生死)を
超越したものによって解放されたいと願っていたからです。
しかし、たまたま十二月八日の夜明けの明星をご覧になった
瞬間に、「自分だ自分だ」 という思い(我見)が消えて、
「自分と万物を隔てるものはもともと存在しない自我だ」
ということに目醒められ、あらゆる苦しみから
解放されたのです。
私たち衆生が、「天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄」 という
「六道輪廻(りくどうりんね)」 の中のどこに入っていっても、
そこの衆生を救う仏様が 「お地蔵様」 なのです。
相手に応じて、それぞれの衆生を救って下さるのです。
「六地蔵様」 は 「六道(りくどう)」 の修行の先達として、
私たち衆生を導いて下さるお地蔵さまです。
雨ざらし、日ざらしになりながら、私たち衆生の身近な存在として
居られるのです。
「六地蔵様」 は一般的には六つの様々な姿形であられます。
これらの「六地蔵様」 は、全部私たち衆生の 「本性(ほんしょう)」 を
あらわしたものです。
ですから、おシャカ様の教えでは偶像を礼拝(らいはい)するということは
まったくありません。
「自分の姿を拝む」 ということなのです。
「法(道)」 は過去と現在と未来を超越した
「今の事実」、「今の様子」 です。
したがって、「法(道)」 に因ってこのことを究明するのではなくて
「現在の自分の相(すがた)を、そのまま素直に受け入れる
ことが必須条件」 なのです。
ですから書物などをもとにして、「解決方法を探ること」 が
あってはならないのです。