活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

悟りの道・迷いの道3

2017年11月15日 | 道元禅師

誰でも真面目に「道(法)」を求めておられるに違いありません。


それだから、その求め方というものは、考え方で、とにかく

自分の考えでどうにかしようとすることを行ってはいけないのです。

 

道元禅師はこういうことを云って居られます。

 

「自分の考えをもって修行しようとする、そういう態度は

迷いの道ですよ」と。

 

そして、「ものの方から(環境から)此の物(自分自身)へ

入って来る、そういうあり方は悟りの道ですよ」と。

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悟りの道・迷いの道2

2017年11月14日 | 道元禅師

「真実」といってどこかへ求めていくから、そういう「追いかける心」を

止めなさいと言われているのです。

 

ただ「此の物(自分自身)」が「此の物(自分自身)」であるのです。

 

そういうことを、おシャカ様や歴代の覚者は教えているのです。


他へ求めることを一切止めればよいのです。

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悟りの道・迷いの道1

2017年11月13日 | 道元禅師

覚者曰く、「真を求ることを用いざれ、ただすべからく

見(けん)を息(や)むべし」と。

 

しかし、みんな「真実」を求めたいのではないでしょうか。

「真実」を求めたいから「修行」しているのではないでしょうか。

 

それなのに、「真を求めるな」とは随分無鉄砲なお示しです。

 

どうしてこのようなことを言うのかというと、私たち衆生が皆

「真(しん)」だからです。

 

「真」でないもの「真実」でないものは一つもないのです。

それを私たち衆生は知(識)らないのです。

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天地一枚

2017年08月22日 | 道元禅師

上を見てはいけません。

上を見ても上はないのです。

 

下を見てはいけません。

下を見ても下はないのです。

 

上も下も皆全自己の「有時(うじ)」なのです。

 

道元禅師は「有時」について、

「時すでに、これ有なり、有みな時なり」

とはっきりお示しになっております。

 

只身の程を知らなければなりません。

「人々(にんにん)の分上に豊かなり」です。

 

比較するから苦しむのです。

「天地一枚のもの」に比較の立てようがないのです。

 

道歌に曰く

「菰(こも)きても やつれがほなき 水仙花」

「うつむくは その掟なり 百合の花」

 

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菩提心を発す

2017年07月27日 | 道元禅師

「菩提心を発す」ということは「坐禅に成り切る」

ということです。

 

坐禅をしている時の坐禅であってはいけないのです。

 

即ち朝起きてから夜寝るまで「すべてが坐禅になって

いなければならない」ということです。

 

そのように心掛けていただくということが、

「菩提心を発して参禅弁道している」ということです。

 

別の言葉でいえば、油断のない生活をしていただく、

そのように理解して頂きたいと思います。

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「法」を求める態度

2017年06月17日 | 道元禅師

修行をしている間は(修行に期間があってはなりませんが)

まず自分を忘れなければなりません。

 

一度自分の考えを捨てなければ、道元禅師のいう

「仏道をならうは自己をならうなり、自己をならうというは

自己をわするるなり」になりません。

 

考えと自分とは別のものではありません。

ですから、自分の考えを自分で忘れるのではありません。

 

「考えそれ自体」を忘れなければならないのです。

 

おシャカ様のお言葉も、歴代の覚者のお言葉もなかなか

頭に入らないということがあると思いますが、それでも

「法を求める態度」としてはそういうことが必要だと思います。

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死は最後の戦いなり

2017年05月05日 | 道元禅師

先般、臨終の時に「三つの愛着(弱点)」が起こると

話しました。

 

「人事は棺を蓋して定まる」とのお言葉があります。

人事の常ならざる思い掛け無いことばかりが多い世の中

ですから、平生の「覚悟」が最も肝要です。

 

「死也全機現(しやぜんきげん)」という道元禅師の

お言葉があります。

 

「死は全機現なり」と悟る上は、「死」に二つはありません。

道元禅師曰く、

「死の時 盡天盡地 一枚の死」

なのです。

 

何も比較すべきものはありません。

只「死のみなり」なのです。

 

「修行の要点」とは、何も比較すべきものはなく、

「只死のみなり」と見て他を見ないことです。

 

いくら考えても、功夫をしても、死ぬ時は死ぬより外に

「道」はありません。

 

「仏も死に、衆生も死に、念仏を唱えればそれだけ汚れ

極楽を求めればそれだけ穢れる」のです。

 

とにかく人は、笑いの中に生まれ、死ぬ時は泣く中で笑って

死ぬ「覚悟」がなければなりません。

 

それには「平生の修行」が大事なのです。

死ぬ前では、もう間に合いません。

 

古来、おシャカ様を始めとした歴代の覚者方の「死にざま」に

学び、参究の一助とすべきです。

 

「彼も人なり 我も人なり その人に成れ その人に成れ」

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人の道

2017年05月03日 | 道元禅師

今日は、報恩感謝の念がうすくなってはいないでしょうか。

「権利と義務」を親子兄弟、夫婦の間にまでふりまわす

人があることは、驚くほかありません。

心すべきことです。

 

然らば、如何にして「人の人たる道」を全うすることが

できるのでしょうか。

 

道元禅師「修證義・行持報恩」に、

「其(その)報謝(ほうしゃ)は余外(よげ)の法は

中(あた)るべからず、唯当(ただまさ)に日日(にちにち)の

行持其報謝の正道(しょうどう)なるべし、謂(いわ)ゆるの

道理は日日の生命を等閑(なおざり)にせず、私に費さざらんと

行持するなり」

と。

 

あるべきように今日を過ごすことです。

別の言葉で言えば、その日その日、その場その場に全力を挙げる

ことです。

 

経に曰く、

「若し人生して百歳なるも、諸仏の機を会せずんば、生まれて一日

にして能く之を決了するに若かず」

と。

 

人生の目的は、諸仏の機を会することです。

そこで初めて真に「報恩底の人」というべきです。

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群を抜けて益なし2

2017年03月29日 | 道元禅師

道元禅師はご修行の時分のことを思って

「今まで自分は脇席をつけず、あるいは隣に坐っている人の

顔も見ずに本当に一所懸命に身命(しんみょう)を賭して

坐ってきたけれども、畢竟どうであったか」

 

「眼横鼻直なることを認得して人に瞞ぜられずだ」

(目は横、鼻は縦についていることを、自分で本当に

知(識)りました)

 

とおっしゃいました。

「このままでよかった」ということです。


「本来本法性天然自性身」

(ほんらいほんぽっしょう てんねんじしょうしん)

「その通りだった(もともと仏であった)」ということです。

 

ですから、結果から言えば、

「動静大衆に一如し、群を抜けて益なし」

ということになるわけですけれども、それまでに成るためには

三年間横になって寝ず、隣に坐っている人の顔も見ずに

ご修行されたという「事実」があったのです。

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群を抜けて益なし1

2017年03月28日 | 道元禅師

道元禅師「弁道法」に曰く、

「動静大衆(どうじょうだいしゅ)に一如し、群を抜けて益なし」

とのお示しがあります。

 

「動静大衆に一如」とは、大衆の皆さんが休むなら、その時は

同じように休み、起きる時は同じように起きる。

すべての生活が一つに成るということです。

 

「群を抜けて益なし」とは、特別なことをしてもなんの益も

ありませんよと、お示しに成って居られます。

 

しかし、それを正直に受け取ってしまって、「みんなが寝るから

もういっしょに寝よう。みんなが休むから一緒に休もう」

としている人があったならば、少し考えて頂かなければならない

ことがあります。

 

道元禅師が中国でご修行なさった様子は「三年間、脇席つけず

(横になって寝ない)」そして、「隣に坐っている人の顔を

見たことがない」ということを言って居られます。

 

そこに大変な「矛盾」を感じて頂かなければなりません。

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