活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

調心の法1

2017年05月31日 | 

「坐禅」をしていて、考えてはいけないということは

ありません。

よく基本に戻って考えてみる必要はあります。

 

どういうように考えるかというと、おシャカ様が息子の

羅睺羅尊者(らごらそんじゃ)にお話になった「調心の法」

というものがあります。

 

今で言えば「随息(ずいそく)」というようなことです。

道元禅師はそのことを欠気一息(かんきいっそく)と示されました。

 

一回息を吸って、そしてスッーっと吐き尽くす、そういうことを

繰り返し繰り返し、静かにそれを続ける。

 

これが「調心の法」です。

そのうち呼吸か整ってきます。

 

とめどもなく起こって来る、とりとめのない自分の意識や考え

というものを整理していくように、そういうことを自分で考えて

行っていけばいいのです。

 

そうしていくうちに「坐禅が坐禅の要領をわからせてくれる」

ものです。

 

自分で分かるのではありません。

「坐ることが、坐る要領を教えてくれる」いうことです。

 


功夫は功夫なり

2017年05月30日 | 坐禅

おシャカ様は、「煩悩即菩提」といわれました。

「煩悩のほかに菩提はありませんよ」という意味です。

 

それなのにいつの間にか、私たち衆生は坐るということを、

「出口を見つけ出す」「迷いから悟りに移行する」

そういう手段や方法にしてしまっているということです。

 

吐く息、吸う息の功夫をする「随息観(ずいそくかん)」は

私(自分)が功夫するのではありません。

「功夫そのものに成る」ということです。

 

数を数える「数息観(すうそくかん)」でもそうです。

一つ、二つと数えて、十まで順序正しく数えられるように

なることが目的ではありません。

 

「ひとぉーつ」といったときに、自分自身がズブーッと

落ちないといけないのです。

 

落ちないから、「ふたぁーつ」としなければならないのです。

そういうことをよく理(理論)として十分承知しておいた上で

坐に親しんで頂きたいと思います。

 

道元禅師のお言葉を拝借するならば、「坐禅は坐禅なり」

「功夫は功夫なり」です。

 

「功夫の外側に目的を求めてはいけない」ということです。

功夫に成り切る、そういう姿勢が要求されるわけです。

 

いわゆる「三昧に成る」ということです。


自我の芽生え

2017年05月29日 | 法理

たまたま人間界に生を受けた者は、どうしてもある時点から

「自我意識、自我の芽生え」というものが起きて来るのです。

 

そして、自分とものとを分けて見るようになるのです。

これはもう、人として止むを得ないことです。

 

生まれながらにして、おシャカ様のように、「ものを一つに見る」

なんてことは出来ません。

 

人間世界においては、その「自我の芽生え」というものを

「分別心が出来た」とか「認識が出来るようになり、自他の区別が

はっきりするようになった」といっていますが、それは大変な

間違いなのです。

 

こういうことから、「何を尊重しなければならないか」ということに

なります。

それは、おシャカ様の教えです。

 

「もともと、ものは一つであったものを、いつの間にか自我の働きに

よって、自他の区別を作った(立てた)」ということです。

 

そういうところから迷いが生じたのです。


一体

2017年05月28日 | 法理

「諸法は実相である、実相は無相である」

というところからお説きになったおシャカ様の教え

というものは、「もとがない」ということです。

 

又、「天地と我と同根、万物と我と一体」とは、

「ものは一つである」「ものには距離がない」ということを

いっているのです。

 

ですから、一体である以上は犯すとか犯されるとか、

傷つけるとか傷つけられるとか、迷いとか悟りとかというものは、

あるはずがないのです。

 

そのことをよく承知しておいて頂かなければなりません。

それがいわゆる「大信根をもつ」ということなのです。


心病

2017年05月27日 | 法理

自分自身の上に矛盾があると、ものに対して是非の念が

起きてきます。

それを「心病」といいます。

 

つまり自分自身の心の上に「病」が生ずるのです。

「この病」は習慣ですから、必ず取れます。

「この病」は取らなくてはいけないものです。

 

それでは、「この病」を取るにはどうしたらいいのかと

いうと、どんなことでもいいのですが、「今の事実」を

手に入れることです。

 

「あるものが、ただ、あった」

それが、私たち衆生の「今の事実」です。

その他にあるのではないのです。

 

ですから「今の事実」が本当に手に入ればよいのです。

そうすれば、「心」をどうにかしなければならない

ということがなくなります。

 

「自分の真実のあり方(今の事実)」がはっきりしないと

どうにかしなければならない、ということが起きて来るのです。

 

それが起きて来ると、それにとらわれてどこまでも追いかけて

いき、きりがないのです。

 

それですから、「自分の真実のあり方(今の事実)」を

見極めようと思ったら「今の事実」をそのまんま、手を付けない

ことです。

 

それでいいのです。

何故かというと、「今の事実」はその通りに全身をあげて

そういう活動をしているからです。

 

そういう「真意」を知(識)って「坐禅」を行じて頂きたく

思います。


身心一如

2017年05月26日 | 法理

「身心一如」というのは「身」といい「心」といい

違ったものがある訳ではないのです。

 

一つ物を一面から「身」と名付け、一面から「心」と

名付けただけのものです。

 

仏教は必ず「身心一如」なのです。

それが本来の姿なのです。

 

それを多くの人は「心(精神活動)」というものと

「身(体)」というこの「肉体」を認めるのです。

 

そういう一つの人の「心」の上に認められたものを

土台にして見るので、自分と物というように「二つ」に

なるのです。

 

ところが不思議なことに「此の物(人)」がそう思わなくても

どうもしなくても「環境」と「此の物(人)」とが一つに

成って大きく動かなければならないように出来上がっているのです。

 

ですから、「此の物(人)」は、そういうわずかな考えを離れている

ことを証拠立てているのです。

 

「心」というものが、変わって「身」といわれるものになり、

「身」といわれるものがあらわれて来ると、それから、

色々なそれぞれの因縁の関係によって「物」が別々になって

来るのです。


十界の分かれ

2017年05月25日 | 仏教

元来、「我」というものは無いものではありますが、

どうしても「修行が要る」のです。

 

それが所謂「十界(じっかい)の分かれ」です。

ここに「修行の必要がある」のです。

 

「十界」は自分の標本である自分が分かれて「仏」とも「地獄」

ともなっているのです。

 

たとえ「地獄」に入っても即ちそれが「仏の生涯」です。

「提婆(だいば)の悪も観音の慈悲」なのです。

 

提婆がおシャカ様を殺そうとして「無間地獄(むげんじごく)」に

入りますが、それを「阿難」が見舞いに行きました。

 

「兄さん、出たらどうか」と言うと、提婆は

「出られない、地獄の者が地獄にあるのは、今の懲役人が懲役に

居るのと同じものである。それだけのものだ。

貴様はものを知らぬ奴だ、それならばおシャカ様を呼んで来い」

と言ったのです。

 

仏様が地獄に来るものではありません。

仏様は仏様の居所に居るのです。

 

提婆は、「因果」を自分で引き受けてやってみせているのです。

「提婆の悪も観音の慈悲」

「周利槃特(しゅりはんどく)も文殊の智慧」

なのです。

 

地獄の者が、地獄の中にあって、心動かざる処は「成仏」です。

 


十界とは2

2017年05月24日 | 仏教

「心」は過去・現在・未来を超越しているものです。

始めもなく、終わりもない証拠です。

 

横は十方(じっぽう)にわたって無辺です。

端がない、何処という方角がないのです。

 

方角がないのに方角を立てるということは、甚だ矛盾していますが

「西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)」というお言葉が

あります。

 

本来の真意は、西方でも見えれば何処でも見えるのです。

西方は「結果」です。

西方は「秋」です。

 

秋は物が実る時ですから、西方を仮に用いたのです。

西方でなければ見えないというものではありません。


十界とは1

2017年05月23日 | 仏教

「十界(じっかい)」とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間(にんげん)

・声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩・仏陀です。

 

私たち衆生の心体のありさまを十種の世界に分けたのです。


世の中のものは皆それぞれに、畜生は畜生の世界があり、

地獄は地獄の世界、菩薩は菩薩の世界がありますが、それは

自分の心の動いたものなのです。

 

「大」という字を延ばしたものなのです。

私たち衆生の思想は大きいものです。「無辺」です。

自分の心は限られない心を持っているのです。

 

心体は無辺ですから、何ものを見ても親しいのです。

この心で物事を行えば「人間(じんかん)到るところ青山在り」です。

 

その大度量がなければ、「人間(にんげん)」の価値は何もありません。


いい状態とは

2017年05月22日 | 坐禅

ほとんどの方は、

「坐禅をしていい状態になろう、苦しみをなくそう」

というふうに考えられていると思います。

 

しかし、そうではありません。

「いい状態」というものは、本当に今のモヤモヤしている状態、

そのものに成り切ることです。

 

そうでないと、仮に坐禅をして、

「坐禅をしてよかった、気持ちがよくなった」とか、

「ものが吹っ切れた」というような、そういうものを結果として

得たならば、必ずそれが輪廻の原因となります。

 

結果が原因となってまた次の結果を生みます。

そういうものは、仏道における坐禅ではありません。