活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

「禅」とは何か

2015年07月31日 | 
「禅」は、「単 (たん) を示す」と書きます。

旧稿「異名同体 (いみょう どうたい)」でも論じましたが、世の中では「自分をも含めて一切のもの (真理)」 を多くの方々が、色々な言葉を用いて説明しています。


「法」「道」 「禅」「無」「如是 (にょぜ)」は、「一つのもの」「同じ事実」を様々な言葉で表現したものです。

本来【名付けようもない】ものなのです。


私はおシャカ様の目醒められた様子を、「今の事実が真理そのものである」と提示しました。

「今の事実、真理そのもの」は、把握出来たり、理解されうるものではありません。

これを「不立文字 (ふりゅう もんじ)、教外別伝 (きょうげ べつでん) の法」といいます。


別の言い方をすれば「禅 (単を示す)」とは、「距離がない」という事です。

すなわち、「禅」とは仏祖 (おシャカ様を始め、おシャカ様の教えを信じて修行され、覚者に成られた方々) の「道」を自ら歩み、歩んだ足跡も、自分も万物と【共に消滅する】道です。

「自分自身そのものが “禅”」なのです。


「禅」の修行は「静中 (じょうちゅう)の禅」と「動中の禅」に分けることが出来ます。

「静中の禅」とは、静かに坐っている状態をいい、坐っている以外の禅を「動中の禅」といいます。


間違えてはいけない事は、【「禅」と「坐禅」がある】という事です。

「禅」即ち「坐禅」を抜きにした「禅」というのは、いつから始まって、いつに終わるというものではありません。

【生活そのものが “禅”】なのです。


ですから、「禅的な生活」とは、間違いです。

「禅に生きる (活きる)」でなければなりません。


私は現在、「仏祖の禅」と「人間界の禅」が存在してしまっている と、思って居ます。





問題の本質

2015年07月30日 | 法理
自分というのは、どうして、いつから自分になったのか、○○太郎・○○子にいつからなったのか。

自分で自分に問いかけても【わかりません】。

誕生日さえも【知りません】。


全部 人間(じんかん-----広辞苑に拠れば、人の住む所、世の中、世間) によって、そのように教えられたのです。

自分で考えて作ったというのは、一つもないのです。

私達衆生は人間 (じんかん) によって、育て上げられ (知識を得) てきた自分を【本来の自分】であるかのように “錯覚” して振る舞っているのです。


「私は何月何日に生まれました、そして、名前は○○○○です」と。

しかしよく考えてみると、本当に自分で知った人、本当に自分で自分の事がわかっている人は一人もいないのです。

【他の知識によって育て上げられてきた自分】と【自分だと思っている自分】との間に問題が生じている訳です。


ですから、その事に気が付かないと、何時までも相対的なものの見方や考え方しか出来ないという事になってきます。

【何も知らない自分】が、「今初めて」ものの本質、本来の自分というもの「自分自身で “これだ” というもの」を体得しない限りは、どんなに克明に理論が完璧なものであったとしても、それは他人のものの見方、考え方というものを【自分のもののように】取り扱っているだけです。


口が渇いた時に「水、水」といっても決して口の渇きは癒えません。

「火、火」といっても、唇が火傷することはありません。

そのぐらい「事実と自分の観念」というのは相違があるのです。

ですから、どうしても一度「自己の正体」というものを見極めない限りは、どんなに立派なことを話していても、究極 (今の事実) までは届かないという事です。

そういうと、「“究極 (今の事実)” というものがあるのか」ということになりますが、何時でも【究極 (今の事実) だけ】なのです。

「今、今」の連続だけなのです。


刹那 (せつな)

2015年07月29日 | 仏教
仏教では、指をパチッパチッと鳴らす事を「弾指 (だんし)」と言います。

この弾指は非常に短い時間ですが、【六十五回の刹那】があるとされています。

そして、その六十五回の刹那の間に、【九百回もの生滅】が繰り返されていると言われています。


これはだいぶ昔の話ですから、今のように科学が進んでくると九百回どころの生滅ではなく、もっともっと細かく見る事が出来ると思います。

私達衆生が、今、今と不用意に言っている一日の間に、いったいどれだけの生滅が繰り返されているのでしょうか。


私はよく、「“もの”として認めるものは何もない」と言ってきましたが、仏教の「三法印の “諸行無常” 」をこのように解釈すれば、証明付けられると思います。


自分を立てること (一念) が、どれだけ “もの” と自分との間に大変大きな隔てをつけるかという事です。

そこで、修行というものは、「一念の生ずる根本」を見極めなければいけないという事です。


念として生じたものは【全て影】です。

私達衆生は「一念、一念」と言いますが、それは【全部影】ですから、それを追いかけて解明しようといっても、どうにもならないのです。

「今、一日」にとてつもない数の生滅が繰り返されているわけですから、解明しようと思ってもか【解明のしようがない】という事なのです。

別の言葉で言えば、【刹那のうちに生じ】、【刹那のうちに滅していく】わけですから、

【何時でも新しいものがそこに出現している】という事です。

修証不二 (しゅしょう ふに)

2015年07月28日 | 
私達衆生は「念、念」と言っていますが、念とはどういうものかという説明は出来ません。

あるいは、「心 (しん、こころ)」も説明出来るものではありません。


白隠禅師の「坐禅和讃 (ざぜん わさん)」の中で「無念の念を念として」という御言葉がありますが、「無念の念」とは、【誰も名前を知らない】のです。


そこで、【わからないうち】は “自我である” と名前をつけたけれども、【わかってみれば】“それがそのまま悟りであり、道であ、法である”という事になるわけです。


このことを「修証不二 (しゅしょう ふに)」といって、修そのものが証拠である、悟りであると説明しています。

ですから、念を起こさない「今の事実」に徹すれば、本当に自分が満足する事が出来るのです。

徹する

2015年07月27日 | 法理
これ迄、色々と申し上げてまいりました。

畢竟どうしたらいいのか、これが一番問題になってくると思います。

これはもう理 (理論)において明確に法理を深め、事 (事実) において「動中の修行」と「静中 (じょうちゅう) の修行」に徹する事です。


別の言葉で言えば、【単純になって「今の事実」に徹する】以外ありません。

これを置いて、どうする事も出来ないのです。


何故、自分がもう一つ「今の事実」に徹する事が出来ないのか、という事は、ただ、単純に「今の事実」に徹していないからだと言わざるを得ないのです。

ですから、単純になって「今の事実」に徹するというその事を【根気よく】続けて頂く以外に、自己を解明する事は不可能なのです。


それをしているか、していないかという事は、【自分がよく知っているはず】です。

他からはどうする事も出来ません。

分かる分からないは「結果」です。

自分の問題なのですから、ただ、「今の事実」に徹すればいいという事です。

不生不滅 (ふしょう ふめつ) 1

2015年07月26日 | 仏教
不生不滅 (ふしょう ふめつ) とは「涅槃」という事です。

「不生不滅〈生ぜず、滅せず〉」というものは、人が生きるとか死ぬという事ではありません。


私達衆生の今の目の前に見える形のあるもの、或いは、心の働きというものは全て「不生不滅〈生ぜず、滅せず」という事なのです。

「不生不滅〈生ぜず、滅せず〉」という事は、ものの究極の様子です。

究極というのは、「今の私達」です。

迷っている、不安があるという事は、本当に【それだけのものであって、何もない】。

それを平等といい、究極と言っています。


何もないところでは、何でもあります。

どんなものでも、そこに入り込んでくるだけのものがあるのです。

しかも【比較するものもない、それだけのもの】なのです。


仏教では因、縁、果 と言いますが、結果が直ちに原因になって、次のものを生じさせて来るのです。

ですから、【結果や事実に留まる事は出来ません】。

何故ならば、いつも変化の中にあることだからです。


おシャカ様や歴代の覚者の究極の御示しは、本来は「不生不滅〈ふしょう ふめつ〉」のものなのです。

【思ったときは思いそのものだけ】なのです。

しかし、そこに「人 (ひと) 」の介在があると、思いが思いだけに済まされなくなるのです。

善いとか悪いとか、好きとか嫌いとか、そういう意識が付着する事になってしまうのです。


三昧 (ざんまい) 1

2015年07月25日 | 仏教
「三昧 (ざんまい)」というのは、成り切る事です。

修行 (今の事実に徹する) を自分のものにするには、【三昧に成り切る】ことです。


静かに坐る時間が取れない方は、坐らなくても結構なのです。

自分の仕事、考える事に時間を費やしている方は、一所懸命に考える事に成り切って頂ければ、それで結構なのです。


或いは、体を動かして労働している方は、一所懸命に労働に従事をする。

これらは皆、【形の変わった坐る事】なのです。

これを、「動中の修行」と言っています。


又、人によっては炊事や洗濯をするよりも、静かに坐って三昧になるほうが尊いのではないかと考えるかもしれません。

しかし、三昧という事から言えば、何をしていても全く同じです。


坐っていても三昧に成り切る事が出来なければ、その人は修行 (坐) になっていないという事です。

坐る事が出来ないからといって、決して「自分は修行が出来ないのだ」というような事は、言ってはいけないのです。


ですから、その事だけに一所懸命になって頂きさえすれば、それで構わないという事です。

出来る人と、出来ない人があるのではないかという心配が生じてくると思います。

しかし、そういう事は【絶対にあり得ません】。


自分の事です。

「今の自分の事実」を、そのままにうけがうという事ですから、出来るとか出来ないという事ではありません。

【気が付くか、付かないか】という事です。


ですから、正しい教えによって、正しい三昧に入れば必ず気が付く事は、間違いありません。

冷暖自知 (れいだん じち)

2015年07月24日 | 仏教
「火は熱い、水は冷たい」という御示しがあります。

しかし「火は熱い」と言っても唇は灼けません。

喉が渇いた時に「水」と言っても、喉の乾きは癒されません。


何故なのでしょうか。

それは「事実」と「言葉」の間に大きなズレがあるからです。


「冷暖自知」という言葉があります。

その中の「自知」という言葉は、自分がものを知るという事ではありません。


水の中に手を入れれば冷たいと思います。

しかし、自らが「水」そのものになれば、「水」は冷たいものでも熱いものでもないという事なのです。

「火」も同じです。


私達はいつでも後から認識した事を「事実」のように思ってしまうのです。

しかし、「今の事実 (法)」と「言葉 (教え)」の間にはズレが存在するのです。


私達は日常生活が全て「言葉 (解釈、理解)」で解決されているかのごとくに【錯覚】を起こしています。

そのため「今の事実 (法)」という存在がある事を分からないまま過ごしているのが実情なのです。


「今」と言った瞬間には、言葉は残っているけれども、実際のものは何も残っていません。

そのくらい「今の事実 (法)」は「無常」であり、「空」なのです。


「今の事実 (法)」を「事実の説明」ではなくて、どうしたら相手に理解してもらえるか考えなくてはならないのです。

「この法」とは 2

2015年07月23日 | 道元禅師
「この法」は、何処にでもあるものですが「そのものが “法”」であると指導する人がいない為、法の中に生活していながらも、気が付かないというのが現状です。

又、正しく「法」を説ける指導者に欠けている為に、修行 (今の事実に徹する) が、その「法」を得る手段や方法に終わってしまうという傾向になりがちです。


余談ですが、正法眼蔵は道元禅師の御著書として有名ですが、その語源の出典を遡れば、おシャカ様になります。

原文を紹介しますと、

「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相 微妙の法門あり

不立文字 (ふりゅう もんじ) 、教外別伝 (きょうげ べつでん) 、 摩訶迦葉 (まかかしょう) に付属す」

と。


ですから、道元禅師の正法眼蔵という御著書は、おシャカ様が御言葉にされた正法眼蔵と全く同じ内容であり、同じ性質のものであることをご理解頂きたいと思います。

「この法」とは 1

2015年07月22日 | 道元禅師
道元禅師 正法眼蔵に曰く、

「この法は 人人 (にんにん) の分上 ゆたかにそなわれり といへども、いまだ修せざるにはあらはれず、證せざるには うることなし」

と。


「この法」とは、今のありのままの状態、自分の事実という事です。

「人人の分上」とは、それぞれの人が、それぞれの立場で一杯一杯に「法」が備わっているという事です。

「修せざるには あらはれず」とは、たとえ豊かに「法」が備わっていたとしても修行しなければ、それが働きとして現れてこないという事です。

「證せざるには うることなし」とは、実証「理 (理論) においても、事 (事実) においても証明する事」をしなければ、いけないという事です。


又、この「法 (人間を含めた形のある物、ない物の存在)」には、正しいものも、正しくないものもありません。

そういう在り方のものではありません。


「この法」というのは、何処にでもあるものです。

アジア独特のものではなく、地域に関係なく、人種、文化、思想、言葉に左右される事なく、世界中何処にでもあるものです。

「この法」は片寄りようがなく、穢れる事もなく、生まれる事も滅する事もありません。

【今の私達衆生の全ての様子の事】です。


「自分を含めて、一切のものが “法”」です。

どのように自分自身に親しむか、その方向を示したものが「法」なのです。

ですから、「この法」という事は「法の世界に至る迄の方便」として存在するものなのです。