活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

行き着くところ2

2024年04月07日 | 坐禅

何故私たち衆生は「グジュグジュしている今の自分を終着点」と、承知出来ないのでしょうか。

 

何故おシャカ様はこんなにグジュグジュした自分の状態を「菩提」と言われたのでしょうか。

 

これはあらゆる人が道元禅師のいわれる「この法は人人(にんにん)の分上豊かに具われりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、證せざるには得ることなし」だからです。

 

ですから、ちゃんと古人の歩まれた道に踵を合わせて修行することによって必ずそのことが現れて来るということです。

 

修行しなければ出来ません。

 

歩みを進めていかなければ「行き着くところ」には到着出来ない、ということになるのです。


一所懸命に坐るとは

2023年11月04日 | 坐禅

「一所懸命に坐って下さい」ということは「今の事実(坐禅)に手を付けてはいけない」という意味です。

 

「じっと今の事実(坐禅)を守りなさい、一切解決の方法を見出してはいけない」ということを言っている訳です。

 

「今の事実(坐禅)の状態」にどれだけ任せ切れる」かが問題なのです。

 

別の言葉で言えば、「じっとそこで坐禅そのものに成りつぶれる」という事を「一所懸命に坐る」というのです。


心の置き所

2023年01月22日 | 坐禅

「坐禅の仕方」は「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」に記されている通りです。

 

ここに大事な事があります。

 

如浄(にょじょう)禅師が道元禅師に「坐禅の要訣」を授けられました。

 

「元子(げんす)坐禅の時は心を左掌に置け」と。

 

「左掌」とは”左の手の平”ということです。

 

このことは「古術」です。

 

よく坐禅の指導者が下腹に力を入れよといいますが、ここのこと(左掌)なのです。

 

その「妙所」が分からずに気張る方がありますが、その心がかえって邪魔物となるのです。

 

「坐の功」を積めば「心を左掌に置く」という意思もなくなり、法身(ほっしん)遂に「坐そのもの」に化して来ます。

 

そして「坐」というものも遂になくなります。

 

これが「大事打開」ということです。

 

このことは、やって證するより外はありません。


新帰元3

2022年10月23日 | 坐禅

おシャカ様も達磨様も道元禅師も、どんなにしても説明出来なかった「今の事実」。

 

これだけは、言葉にも物にも形(すがた)にも表す事が、出来なかったのです。

 

その事(今の事実)を私達衆生は今、おシャカ様のお示し或るいは達磨様、道元禅師のお示しによって、「その道」を行じていくということです。

 

それを行じ尽くせば、道(法)も無くならなければいけないし、修行(坐禅)もなくならなけば、いけないのです。

 

それが「元に帰る」という事です。

 

そういう道理(法理)という事を、よく理解しておいて、そうして信決定(しんけつじょう)が出来たならば、脇目もふらずに修行(坐禅)することです。

 

そう言う修行(坐禅)をしていただきたく思います。


「坐禅は坐禅なり」とは9

2021年07月10日 | 坐禅

「坐禅は修證不二なり」と最初から丸呑みをしてはいけません。

 

その間には多少の距離と時間とを要する事を忘れてはいけません。

 

そうしないと「空腹高心(くうふくこうじん)の病」に堕ちます。

 

指導者の下で百錬千鍛を要する事も忘れてはいけないのです。

 

経に「法喜禅悦を食(じき)となす」というお示しがあります。

 

「食 無くんば 命 無かるべし」です。

 

深くこれを思っていただきたいと思います。

 

不尽


「坐禅は坐禅なり」とは8

2021年07月08日 | 坐禅

坐禅は直に是れ「身心脱落」です。

 

道元禅師は中国に於いて「身心脱落の一声の下」に確かに「身心脱落」を体得されました。

 

これが直に坐禅の力です。

 

「この力に前後無し」というのは「理想の上」から言っているのです。

 

事実、境界(きょうがい)の上からはその境界を体得しなければ「自ら許す事」は出来ないはずです。

 

「坐禅は坐禅なり」。

 

坐禅に師 無し、坐禅の真師は坐禅なのです。

 

即ち「坐禅が坐禅を教えてくれる」のです。

 

「坐禅は元より結果」にして、手段・方法ではありません。

 

 


「坐禅は坐禅なり」とは7

2021年07月06日 | 坐禅

「坐禅」という事は言葉を変えていえば「懺悔(さんげ)し尽くされた状態」です。

 

さらに別の言葉で言えば「私の無くなった状態」なのです。

 

「私が何々をしたので懺悔をしなければならない」というものではありません。

 

ですから、「坐禅は坐禅なり」なのです。

 

「私」が坐禅するのではありません。

 

「坐禅は坐禅なり」です。

 

何故ならば「坐禅は懺悔し尽くされた状態」だからです。

 

「私」というものの全く無い状態を「坐禅は坐禅なり」というのです。

 

迷いだけではありません。

 

「不安、恐れ、煩悩」にしろ「人(ひと)の介在が無ければ必ず「その物(不安、恐れ、煩悩)」に成れます。

 

だから「ものの本性」が分かるのです。

 

それを分かろうと押していく力を「菩提心」と言っています。

 

「坐禅」というのは「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)という自分の日常生活」の事です。

 

「行住坐臥の坐禅」が出来るように成るという事は「静中(じょうちゅう)の禅」をしっかり行って、私たち衆生が諸々の作務をする時、頭を使って考える時、体を使って働く時も「坐禅は坐禅なりという様子と同じように成る」という事です。

 

つまり「全部が坐禅」なのです。


「坐禅は坐禅なり」とは6

2021年07月04日 | 坐禅

「私が坐禅をしている、私が仕事をしている」という「坐禅」と「私」というものが二つに成らないように満身の坐禅、満身の仕事に成り切らなければならないのです。

 

坐禅というものは自分で行うより他に無いのです。

 

そこを達磨大師は「諸仏の法印は人から得るものではない、自分でやりなさい」とおっしゃっています。

 

ですから「法(道)」を求める事です。

 

「法(道)」というのは自分自身の事です。

 

「自分自身」というのは「法身(ほっしん)その物」です。

 

「法身」というのは無限であり、無辺のものです。

 

それが自分の姿です。

 

しかし、私たち衆生は「人、私、法、道、というものを認める」が為に、こんな大きなものであるという事に気が付かないのです。


「坐禅は坐禅なり」とは5

2021年07月02日 | 坐禅

道元禅師のお示しに「人は坐禅するにあらず 坐禅に坐せらるるなり」とあります。

 

坐禅の時には「私」というものの介在する余地が無い」という事です。

 

「坐禅その物に成る」という事です。

 

「頑張らなくてはならない」というような事でも、純粋という面からいえば「余分の事」です。

 

それくらい「今(今の様子、今の事実)」というのは垢も付かなければ、汚れる事も出来ない透明なもの、スッキリした者、はっきりしたものであるという事です。

 

「坐禅の指導者は坐禅その物」です、人ではありません。

 

坐禅をして「迷いの本性」を分かろうとするのではありません。

 

坐禅その物が迷いに成ってしまわないと、「迷いの本性」というものは見定める事は出来ないのです。


「坐禅は坐禅なり」とは4

2021年06月30日 | 坐禅

「坐禅は坐禅なり その時」を別の言葉で「見性(けんしょう)」とか「身心脱落」とか「解脱」とか、そういうように説明しています。

 

一度、「その事実」にならないと「そのまま(今のまま、現在のまま)で善かった」という事にはならないのです。

 

いくら観念的にそうしても「自分自身が承知(満足)出来る訳がない」のです。

 

ですから「坐禅は坐禅なり」、そういう「坐」に徹して頂かないといけない訳なのです。