“こちらの岸 (此) ” と ”あちらの岸 (彼)”
というものを立てて考え勝ちです。
しかし、“ 迷いの岸 (此) ” と “ 悟りの岸 (彼) ” を作るということは、これは大変な間違いです。
彼岸というのは、「到彼岸 (とうひがん) 、事究竟 (じくぎょう)」と、こう言っています。
「事がそれで終わっている」
それを彼岸といいます。
私達衆生の生活のすべてが「事究竟、事がそれで終わっている」ということでないと、本当ではありません。
「自分はまだ未熟だ、未熟だ」という人がいますが、【未熟のままで終わっている】のです。
「未熟だから完成させよう」ということになると、それは大変な間違いであるということです。
理 (理論)では分かっているけれど、事 (事実) は なかなか伴わないものです。
ですから、そこで【やむを得ず】に、修行 (今の事実に徹する) して頂かなければならないのです。
【修行するということは、傷をつけるということ】なのです。
【本来、傷がつくべきものではない】けれども、自ら傷をつけて、そして修行するのです。
修行するということは、傷をつけたということです。
前稿の「修証一如」から言えば、そういうことになるのです。
そうしなければ「坐禅は坐禅なり」という、その事実 (今の事実) がわからないということなのです。