活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

彼岸 3

2015年08月31日 | 仏教
一般的には彼岸というと、

“こちらの岸 (此) ” と ”あちらの岸 (彼)”

というものを立てて考え勝ちです。

しかし、“ 迷いの岸 (此) ” と “ 悟りの岸 (彼) ” を作るということは、これは大変な間違いです。


彼岸というのは、「到彼岸 (とうひがん) 、事究竟 (じくぎょう)」と、こう言っています。

「事がそれで終わっている」

それを彼岸といいます。


私達衆生の生活のすべてが「事究竟、事がそれで終わっている」ということでないと、本当ではありません。

「自分はまだ未熟だ、未熟だ」という人がいますが、【未熟のままで終わっている】のです。

「未熟だから完成させよう」ということになると、それは大変な間違いであるということです。


理 (理論)では分かっているけれど、事 (事実) は なかなか伴わないものです。

ですから、そこで【やむを得ず】に、修行 (今の事実に徹する) して頂かなければならないのです。


【修行するということは、傷をつけるということ】なのです。

【本来、傷がつくべきものではない】けれども、自ら傷をつけて、そして修行するのです。


修行するということは、傷をつけたということです。

前稿の「修証一如」から言えば、そういうことになるのです。


そうしなければ「坐禅は坐禅なり」という、その事実 (今の事実) がわからないということなのです。

修証一如 (しゅしょう いちにょ)

2015年08月30日 | 語録
仏教というのは、【結果】示したものです。

お経の始めに「如是 (にょぜ) - [かくのごとし]」と言っています。

これも「法の説明」です。


「修証一如 (しゅしょう いちにょ)」という御言葉があります。


これは【結果から見て】、そのような境涯に至った人(覚者) が、

「修証は一つである」

と、こう言った訳です。


それがわからない人が、「修証は一つである」ということを理解し、そして「一つである」ということ(見) を先に立て、「ものを求めてはいけないんだ。これでいいんだ」というように、自分の考えを起こして修行をするならば、それは大変な誤りであるということです。


「修と証、生と死、迷いと悟り、不安と安心」

これらは皆、比較相対したものです。


それでは皆、距離 (隔て) があるということです。

それでは「一如」ということ、「一つのものである」ということは言えません。


坐禅で言うならば、

「坐禅は坐禅なり」

で、終わるようにしないといけないということです。

三世心不可得 (さんぜしん ふかとく)

2015年08月29日 | 語録
「三世心不可得 (さんぜしん ふかとく)」という御言葉があります。

過去の心も、現在の心も、未来の心もつかむことは出来ません。

ですから、「畢竟(ひっきょう) 、今」なのです。


坐禅を志す人は、

「今、初めてここで坐る。今、初めて法を耳にする」

そういう態度で坐って頂きたく思います。


坐禅は人のためにするものではありません。

法のためにするものではありません。

自己のためにするものでもありません。


「坐禅は坐禅なり」

「唯務 (ゆいむ) (ただ つとめる)」

ということです。

自己をわするるなり

2015年08月28日 | 道元禅師
「自己をならうというは、自己をわするるなり」

という、道元禅師のお示しがあります。


「自己をならう」とは、自己に参じることです。

「自己をわするるなり」とは、「ものと自分との隔たりがなくなったこと」をいいます。

間違いやすいことです。


坐禅によって自己を【忘じようとするから】、自己が【忘じられない】のです。

ですから、【坐禅に成る】、それが自己を忘じることなのです。


坐禅というのは、「行住坐臥 (ぎょうじゅう ざが)」、つまり、日常のすべてのことなのです。

ですから、そのもの そのものに成る、それを「自己をわするるなり」と、こういっています。

自己を忘じたことを、「脱落」と言うのです。

菩提心 (ぼだいしん) 1

2015年08月27日 | 仏教

今は人道主義といいますか、人間 (にんげん) が中心になっています。

その人間の求めているものは、「六道輪廻 (りくどう りんね)」の「極楽の世界」、すなわち「天上界」です。


この天上界というものは、【果報が尽きる】と、必ず真っ逆さまに、地獄・餓鬼・畜生(三悪道)・人間・修羅の世界に落ちることがあります。

ですから、天上界にいる人も、そういうところに何時までも留まっている事は出来ません。


もうひとつ、「上求菩提 (じょうぐ ぼだい)」という、「菩提心」を起こして頂きたいのです。

声聞縁覚 (しょうもん えんがく) を飛び越えて、「菩提、仏」という位に、そこまで自分の修行力、境涯を高めないといけないのです。

皆、そうして御苦労をなさったのです。


おシャカ様を始めとして、「生まれながらにして仏様」という方は一人も居ません。

皆、血のにじむような努力の末に【法を得られた方々】ばかりなのです。


報恩

2015年08月26日 | 
私達衆生がおシャカ様を始めとして、歴代の覚者と言われる方々の恩に報いるには、「自分の坐禅を誰かに伝えていく」という、“菩提心” といいますか、「志」をもって頂かなければいけないのです。


“此の事” は、拵 (こしら)えて出来る事ではありません。

拵えた物とは、手で作り上げたものということです。


拵えた物ならば、早晩なくなってしまいます。

“此の事” とは、そういうものではありません。


「自らが【法】を自分の物としなければならない」

ということです。


「こういう法があるのだ」と【知った人】は、もうその人の責任です。

いい加減なところで挫折してしまって、

「誰か自分の代わりになって、やってくれる人が居るだろう」

と、簡単に考えないようにしてもらいたいのです。


「自分は坐禅をさせてもらっているのだから、その喜びを誰かに伝えて、共に坐禅弁道の出来るような人を作らなければ」

と、そういう「志」を起こしていただきたいと思います。

ひたすらに坐る2

2015年08月25日 | 坐禅

「坐る」 という言葉を聞くと、何が何でも足を曲げて、

形通りの坐ということにこだわる人がいます。

しかし、坐禅というのは行住坐臥 (ぎょうじゅう ざが)

だということです。


四六時中、すべてが坐禅になっていなければならないのです。

自分の今していること、考えていることが

全部坐禅になるように心掛けなければいけないのです。


禅宗で、「摂心 (せっしん)」 の 「摂」 という字は、

心を摂(おさ) める、整理するというように解釈されています。


しかし、本来の 「摂」 というのはあるがままに、ありのままに

という意味です。

散り散りバラバラになっているものを、

ある一つの形にはめることではありません。


「あるがままに、そのままに任せておく」

ということを 「摂 (おさ) める」 と、解釈して

いただかなければならない訳です。


摂心で 「坐に親しむ」 ということで、

自分と相手との距離 (隔て) をなくすことなのです。


ひたすらに坐る1

2015年08月24日 | 坐禅

結局、「どのような心掛けで坐禅に望めば臨めばよいのか」

ということになってきます。


禅という字は旁 (つくり) と偏に分けてみると、

「単を示す」 となっています。

「坐禅は坐禅なり」 です。


ですから、「単純にひたすら(祗管) に坐る」 ということです。

これが禅のギリギリのところなのです。

「ひたすら (祗管) (只管)」 に坐る。

「ただ (只、唯) 」 坐る。


もうすべてに、「ひたすら」「ただ」 というものは通じることです。

すべての生活はすべて 「祗管、只管 (しかん)」 なのです。


顔を洗う、歯を磨く、お経を読む。

これは皆「ただ (只、唯) 務める」ということです。


これがいちばん単純で正しい坐のあり方なのです。


分別心 (ふんべつしん)

2015年08月23日 | 仏教
「私はまだ未熟な者である。完全な者ではない」

あるいは、

「自分にはこういうところに欠点があるから、その欠点を直そう」

というようなことで坐禅を行うと、ますます自分の病気を、深く、大きくしていくものです。


ですから、良いとか悪いとか、未熟だとか成熟だとか、あるいは、善だとか悪だとかということは、全部「分別心 (ふんべつしん)」なのです。

「分別心」とは、一つのものを認めることです。

「一つのものを認める」のは「自分 (自我)」があるから、そういうものを【認めなければならないようになる】訳です。


ものは決してあるわけではないのです。

一つのものを認めて、分別を起こせば、良ければそれに執着し、悪ければそれを切り離していこうとするものです。

しかし、そういうものではありません。

スタート、即 ゴール

2015年08月22日 | 仏教
「スタートとゴール」

があって、そして、

「私は今、修行を始めました」

と考え、

「ゴールに至らなければならない」

と思う。



修行というのは、そういう流れの関係にあるものではないのです。

今、今が「スタート、即 ゴール」ということです。


その場その場で、きちんとものが解決しているということです。

その事を常に念頭に置いて、修行(今の事実に徹する) に励んでいただきたいと思います。