活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

随他去2

2017年11月30日 | 語録

私たち衆生は「人」を認めてから、「生きている」と、こういいます。

あるいは、人間(にんげん)の機能がなくなった人を「死んだ」と

いいます。


もともと、「いつから私たちの生命が始まったのか」ということは

わかりません。


私が「私」というものを認めてから、そういうものが始まってきた

わけです。


ですから、同じ因果の法則に従って、ある時は「人」になり、

ある時は「樹木」になり、さまざまな形が出来上がって来ている

ではありませんか。


元を正せば皆、「四大」です。

「地・水・火・風」です。


ですから、「見性」というものが、どうしても必要になって

くるのです。

 


随他去1

2017年11月29日 | 語録

「随他去(ずいたこ)」とは、他に随い去るということです。

他のものと共に随って無くなるという意味です。

 

「随う」ということは、「親しさの極まり」をいっています。

別の言葉で言えば、「距離(隔て)のないこと」をいっているのです。


考えなければならないことは、「他のものと同じように随って

なくなっていく」ということを、自分を除外して考えると、他に随って

無くなっていくものを自分自身が眺めていることになります。


いつでも「仏性」というものを認めて「そういうものだけが他にある」

というような考えを起こすと、自分を除外して、そして移り変わって

いくものだけを眺めているということになります。


これでは本当ではありません。


「移り変わっていくもの、それだけだ」ということです。

「順、逆」「苦、楽」ともに、みんな一つのものです。


他に随い去る距離(隔て)のないものなのです。


心外無仏法6

2017年11月28日 | 仏教

「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)」は十劫(じゅうごう)

もの長い間坐禅をしたけれども仏法の真髄を究めることが

出来なかったという話も「心外無仏法(心外に法を求めた)」

だと言えましょう。

 

このように余るところなく欠けるところもないのが私たち衆生の

様子です。

 

このことがどうしても自分で納得が出来なければ、しばらく、

しばらく、です。

 

おシャカ様や歴代の覚者の教えに従って坐禅をし、しかるべき

指導者に「聞法(もんぽう)」をしなければならないのでは

ないでしょうか。

 

その究極に、「本来迷っていない」ということに気付くことが

修行の要諦です。


心外無仏法5

2017年11月27日 | 仏教

「法」には「不明という法」があります。

「妄想という法」もあります。

 

不透明、不鮮明、不確実というような「モヤモヤしてはっきりしない法」

もあります。

 

これらは全部間違いなく「自分自身の今の様子」です。

それを「平常心是道(びょうじょうしんぜどう)」と言います。

 

ところが、「そういうものは自分の求めているものとは違う、

仏道というものはもっと高邁なものだ」とか、そのほか自分の

イメージした「これこそ仏道だ」という考えをもって修行すると

「心外無仏法(心外に法を求める)」になってしまいます。

 

求めれば求めるほど、修行すれば修行するほど隔たりが出来て

自分は北に向かって歩いているつもりが、南の方に進んでいた

ということになってしまいます。


心外無仏法4

2017年11月26日 | 仏教

したがって、総てを足りたと思っても増すことはないし、足らない

と思っても自心が減ることはありません。

 

別の言い方をすれば足りるといっても余らず、足らないといっても

欠けることのない「不増不減」「無碍(むげ)自在の一自心」

これらのことを究明するのが古仏の「宗乗」であり、「法門」

なのです。


心外無仏法3

2017年11月25日 | 仏教

「人は本来迷っていない」ということを知(識)って、自心

(自身の心)のほかに悟りを求めてはいけないのです。

 

この「迷っていない」ということを知(識)ることを「悟り」と

言っているのです。

 

「梵網経(ぼんもうきょう)」では、「心地(しんち)」といい、

法華経では「実相」といっていますが、迷いとか悟りというのは

仮の名前で、その本体は「無自性(自性が無い)」であるという

ことを実證(自分自身で證明)しなければなりません。

 

「心外無仏法(心の外に仏道も仏法も無い)、(今の外に仏法は無い

ということ)」です。


心外無仏法2

2017年11月24日 | 仏教

おシャカ様の「法(道)」、歴代の覚者の教えに従っていかなければ

「法(道)」には到達しません。

 

しかし、到着したならば自分のものなのです。

「仏法(仏の法)」ではないのです。

 

れぞれの人の、それぞれの人の「法(道)」なのです。

「今の自分以外」に他を求めてはいけないということです。

 

本当に「六道輪廻(りくどうりんね)の衆生」になりさえすれば

何もそれから抜け出して声聞(しょうもん)、縁覚、菩薩、仏

というような所に行く必要はないということです。

 

 


心外無仏法1

2017年11月23日 | 仏教

「心外無仏法(しんげむぶっぽう)」とは、どんな状態であっても、

その状態しかないということです。

 

「自分の今の心の動き」が「仏法(仏の法)そのもの」なのです。

 

おシャカ様がそのことを人類で一番最初に気が付かれましたので

「仏法(仏の法)」といっています。

 

仮に「Aさん」がそれに気が付いたならば、おシャカ様(仏)と

比べられない「Aさんの法」そのものなのです。

 

ですから、「法(道)」というものは、

「自己の正体を見極めた人のもの」なのです。


二つの方法2

2017年11月22日 | 法理

「ただ坐っているだけ」では、いつも「坐ってものを考える」

という結果に終わってしまいます。

 

しかし、自分自身の問題を持って坐っている人には、本当は

余分なことなのです。

 

指導者は、坐禅(功夫)が純一にならないという様子に見受け

られる方には「こうしなさい、ああしなさい」と手取り足取り

して指導しているのです。

 

「こうすべきだ、ああすべきだ」というのは、本当は余分な

ことなのです。


二つの方法1

2017年11月21日 | 法理

「惑い」をなくすには、具体的にどうしたらいいのかというと、

ある時は「祇(只)管打坐(しかんたざ)」をし、又ある時は

「公案功夫(こうあんくふう)」をすることです。

 

この二つの方法による以外は、「坐禅が坐禅になる、本当に満足する

坐禅」というのはありえないのです。

 

ですから、歴代の覚者は、この二つの方法を「親切に、丁寧に、

真心を込めてしなさい」といっているのです。

 

私たち衆生は行じていかなくてはならないのです。