「今」と言う言葉は有(在)っても実体はありません「今」と言う時はありません。
それを、おシャカ様や歴代の覚者方は「法」と説明したのです。
「人」の考えられるものはいつも「過去と未来」だけなのです。
「過去と未来」を現在に持ってきて考えているのです。
ですから、「今」と言う言葉を使って実体の無い「今」と云うものを、自分のものにする以外にないのです
「今」と言う言葉は有(在)っても実体はありません「今」と言う時はありません。
それを、おシャカ様や歴代の覚者方は「法」と説明したのです。
「人」の考えられるものはいつも「過去と未来」だけなのです。
「過去と未来」を現在に持ってきて考えているのです。
ですから、「今」と言う言葉を使って実体の無い「今」と云うものを、自分のものにする以外にないのです
「今の事実(法・仏)」と「言葉(教え)」には明らかにズレがあるのに私達衆生の日常では、本当のこと(今の事実)が解らずに曖昧のままに過ぎてしまっています。
問題とすべきことは、「人」と言う者を土台にした教え方なのです。
もともと「人」と認める者は存在しませんから、「有(在)ると思っているのは間違いです。
しばらくの間は、おシャカ様の説かれた「法」を借りて「自分自身の法」に目覚めるように努めていくのが「仏道の修行」なのです。
仏道には必ず修行の過程があります。
すなわち「発心・修行・菩提・涅槃(ほっしん、しゅぎょう、ぼだい、ねはん)」です。
この経路無くして仏道は実現致しません
経に曰く
諸法皆是因縁生(しょほうかいぜいんねんしょう)
因縁生故無自性(いんねんしょうこむじしょう)
無去来故無所得(むこらいこむしょとく)
無所得故畢竟空(むしょとくこひっきょうくう)
是名般若波羅蜜(ぜみょうはんにゃはらみつ)
南無一切三宝(なむいっさいさんぼう)
無量広大(むりょうこうだい)
発阿耨多羅三藐三菩提(ほつあのくたらさんみゃくさんぼだい)
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「(あのくたら)」とは、無上と云う事です。
阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)とは、「正等正覚(しょうとうしょうがく)」と云う事です。
正しく仏と等しく悟りと云う事です。
仏(ほとけ)も元(もと)凡夫、凡夫も悟れば仏です。山を見れば山と等しく、海を見れば海に成り仏を見れば仏に成ると云う事です。
経に曰く
諸法皆是因縁生(しょほうかいぜいんねんしょう)
因縁生故無自性(いんねんしょうこむじしょう)
無去来故無所得(むこらいこむしょとく)
無所得故畢竟空(むしょとくこひっきょうくう)
是名般若波羅蜜(ぜみょうはんにゃはらみつ)
南無一切三宝(なむいっさいさんぼう)
無量広大(むりょうこうだい)
発阿耨多羅三藐三菩提(ほつあのくたらさんみゃくさんぼだい)
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本来、私達衆生(わたしたちしゅじょう)は、分かる分からないとか、明確になるならないにかかわらず、自分自身で一杯一杯の生活が出来ているのです。
「三宝(さんぼう)」とは、仏・法・僧のことです。
「南無一切三宝」とは、仏・法・僧に帰依(きえ)することです。
経に曰く
諸法皆是因縁生(しょほうかいぜいんねんしょう)
因縁生故無自性(いんねんしょうこむじしょう)
無去来故無所得(むこらいこむしょとく)
無所得故畢竟空(むしょとくこひっきょうくう)
是名般若波羅蜜(ぜみょうはんにゃはらみつ)
南無一切三宝(なむいっさいさんぼう)
無量広大(むりょうこうだい)
発阿耨多羅三藐三菩提(ほつあのくたらさんみゃくさんぼだい)
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諸々の現象は因縁より生まれて来ているので、「自性(じしょう・もの自体)」がありません。
ですから行ったり来たりしないので、場所も距離も時間もありません。
所在が無い故に「空」なのであり、故にそれを「般若波羅蜜」と言います。
ちゃんとお経によって私達衆生(わたしたちしゅじょう)の「今の様子」を証明してくれています。
お経にはそうであっても、どうしても自分の生活が「不自由」だと思う人は、それだけやはり「自分」と云うものを、使って生活しているわけです。
経に曰く
諸法皆是因縁生(しょほうかいぜいんねんしょう)
因縁生故無自性(いんねんしょうこむじしょう)
無去来故無所得(むこらいこむしょとく)
無所得故畢竟空(むしょとくこひっきょうくう)
是名般若波羅蜜(ぜみょうはんにゃはらみつ)
南無一切三宝(なむいっさいさんぼう)
無量広大(むりょうこうだい)
発阿耨多羅三藐三菩提(ほつあのくたらさんみゃくさんぼだい)
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それから多くの人は、「無」と言うと、「ない」と思い込んでしまうのです。
分別を去らせんが為に「無・空」の字を説くのです。
「無・空」は、異名(いみょう)にして同体なのです。
私達衆生(わたしたちしゅじょう)は、「夢」を見る習慣がついています。
ですからおシャカ様や歴代の覚者方は、その「夢」にしたがって、その人(道・法を求める人)に「夢」を与えてでも、一応「楽」にする「道、法」があると示すのです。
それを「応病与薬(おうびょうよやく)と言います。
経に曰く
諸法皆是因縁生(しょほうかいぜいんねんしょう)
因縁生故無自性(いんねんしょうこむじしょう)
無去来故無所得(むこらいこむしょとく)
無所得故畢竟空(むしょとくこひっきょうくう)
是名般若波羅蜜(ぜみょうはんにゃはらみつ)
南無一切三宝(なむいっさいさんぼう)
無量広大(むりょうこうだい)
発阿耨多羅三藐三菩提(ほつあのくたらさんみゃくさんぼだい)
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この「もんごん」の中で最も注目すべきお言葉は「故(こ)」です。
「故」は、般若心経にある「是故」(ぜこ、このゆえに)」の略です。
「故の故に」とは、「此の人〈因縁生、空、無を了知した覚者〉」には、何にも認めるものがないという事です。
多くの人が思想的に、空とか、無とか言うと、「ない」と、決めてしまうものです。
ところが、無とか空とか言うものは、然う云うものではなくて、必然な自由性のものであるのです。
空と言うのは決まった場所がないから、どんなにでも自由に動ける、それが「空」なのです。
経に曰く
諸法皆是因縁生(しょほうかいぜいんねんしょう)
因縁生故無自性(いんねんしょうこむじしょう)
無去来故無所得(むこらいこむしょとく)
無所得故畢竟空(むしょとくこひっきょうくう)
是名般若波羅蜜(ぜみょうはんにゃはらみつ)
南無一切三宝(なむいっさいさんぼう)
無量広大(むりょうこうだい)
発阿耨多羅三藐三菩提(ほつあのくたらさんみゃくさんぼだい)
因縁生(いんねんしょう)のものは、すべて無自性(むじしょう)なのです。
中心がないのです。
全てのものがないままに「縁」になったり「因」になったりしているのです。
仏教は因果説、縁起説を方便として「法」を説いているのです。
因縁説は因や縁によって果を生じ、縁起説は、全てのものはどこからともなく集まって来て、集まって来るもの自体は、縁(無自性)によってそうなって来ているのです。
ですから「実体がない」のです。
大人は、子供のひとつひとつの行為を否定的に見るのではなく、子供に内在する普遍意識の展開を絶対的に信頼して見守っていくことが何よりも大切な事です。
個人の人間としての表現は、それぞれ違っていますから、他人の得たものを、そのまま持ってきても使い物にならないし、それが可能であったとすれば地上に人間をたくさん創った意味はなかったことになってしまいます。