活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

霊魂(れいこん) とは何か 2

2015年04月30日 | 仏教
時々刻々、いつでも変化している「無常」という事から言えば、死とか生とかいうようなことは言えません。

何をもって生とし、何をもって死と言うか、区別をつける事は出来ません。

始めが分からないのですから、終わりも分かるはずないのです。


途中の事というのも、同じように分かる事が出来ないのです。

何故ならば、死んだ人は自分が死んだという事を自分では認められません。

生きている人も同様です。


本当に生きなければ、本当に死ぬ事は出来ないのです。

本当に生きるから本当に死ねるのです。

本当に生きていない人の事を「半死半生」と言います。

だからそういう人は「過去」と「未来」しか、見えていないのです。

「半死半生の状態の人」だから、生とか死が問題になって来るのです。


人はすべて万縁に随って、生死繰り返しながら「今の事実」があるのです。

ですから、「今の事実」を自分のものにする、これが真実の人の生き方ではないでしょうか。






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霊魂(れいこん) とは何か 1

2015年04月29日 | 仏教
無常、無我、無相を説くおシャカ様の教えを、人の考え方やものの見方と理解すると人の不思議は行動(働き) や思想(考え) の根源に霊魂(心) という存在があって、人を支配しているような錯覚を起こします。

おシャカ様の説かれた「縁起の法」を「霊魂」の存在と誤解されている人が多いと思います。

人は縁に因って、どんなものにでも移り変わる事が出来る為に、そう人は考えてしまうのです。


おシャカ様の教え以外の他の宗教には、「縁」という思想がありません。

例えば、人が亡くなったという事は、縁に従って状態が移り変わって行ったという事なのです。

これを「無常」と言っています。

縁に因って自由に変化して行く、そういうものだから、それを「霊(れい 呉音では、“りょう”と読みます)」と言っています。

「霊(れい)」とは、不思議という意味です。

不可思議とは、人の考えやものの見方では理解出来ない事を言います。

別の言い方をすれば、「霊」とは限りないものだと解釈をしないと間違えます。

限りないものですから、何にでも変化をするのです。



おシャカ様の教えで言う「輪廻」と言う事でも、間違えると一つの中心になるもの(霊魂) があって、それが縁に因って様々な状態に変わって行くと言いますけれど、そうではないのです。

【全体が変わってしまう】という事です。


霊魂だけが残って、それが変わるというのではなくて、全体が変わって行く、という事にならないと、おシャカ様の説かれた「法」ではないのです。

時々刻々に移り変わっている事を、おシャカ様の教えでは「生死(しょうじ)」を繰り返していると言っています。

つまり、新しいものも古いものも、ただ縁に従って時々刻々にすべて移り変わっている状態を「無常」と言っている訳です。


ですから、その中一部分が元のままになっていて、何かの一部分が縁に従って変わって行くというのではないのです。






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「戒」について 2.不殺生戒(ふせっしょう かい) とは

2015年04月28日 | 
具体的に、不殺生戒で「戒」を考察してみます。

不殺生戒の「殺す」という事は、相手を認める事により起こる言葉です。

「殺す」といっても、取捨の念を起こして、殺す事をやめる事も、相手を認めた二元論ですから「殺、不殺(さつ、ふさつ)」ともに罪悪なのです。


おシャカ様の教え(仏教) の「不殺生戒」とは、「本来すべてがひとつのもの」「初めより宇宙と一体なもの」ですから、【殺しようがない】のです。

相手が無いから、再び犯しようがないのです。


ですから、不殺生戒を「殺す人も無ければ、殺される相手も無い」というふうに受け取って頂きたいのです。



【仏法でいう殺生と、普段言っている殺生とは全く違う】ものです。

【仏法から言えば、「煩悩を滅する、迷いから離れる」という事は、殺生(破戒)】なのです。


不殺生戒というのは、色々な生き物を殺すという事だけではありません。

心中に湧き起こる自分の思想を、排除しようとする事も、殺生(破戒) だという事です。


「破戒」しているから「悟り」を得ることが出来ないのは当然なのです。

要するに、守るべきものを、よそに立てて、それを守っていこうとする姿勢は、ことごとく戒を傷つける(破戒) なのです。


ですから、「煩悩をなくして菩提を得よう」と思う事は、それはすでに【破戒】だという事をよく承知しておいてもらいたいと思います。

その辺の事を、おシャカ様は「煩悩即菩提(ぼんのう そく ぼだい)」つまり、【煩悩の外に菩提はありませんよ】 とおっしゃっておられるのです。

おシャカ様の教え(仏教、仏道、仏法) は「戒」そのものであるという事です。





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「戒」について 1

2015年04月27日 | 仏教
私達衆生は概念的に「戒」とは特別の事のように考えがちです。

「してはいけないこと、しなければならないこと」が「戒」であると、どうしても思ってしまいます。

しかし、そうではありません。


「戒」とは、いつでも距離がなく、ものと一つにある事を言います。

ですから、「戒を守る」とは【ものと一つになっている「今の事実」に手を付けない】ということなのです。


「戒とは制止なり、対治なり」という御言葉があります。

おシャカ様が始めて成道なされて、「戒」を結せられたのです。

その際の御言葉は「私と大地有情(世界のあらゆるもの) と同時に成道(悟りを得る) する」と。


これを「制止」と、名付けています。

「制止」する故に「仏戒」と呼んでいます。


「制止」とは、欲望を制する事をいい、対治とは、悟りの智慧で煩悩の迷いを破ることを言います。


本来、【すべてが一つ】です。そうであるにもかかわらず、私達衆生は、一つのものを二つに見てしまうのです。

例えば、「自分は迷っているから悟りを得なければならない」

「不安があるから安心を得なければならない」

「我があるから無我にならなければならない」

といった事です。


自分の理想とするものを、他に見立てて「そこに到達しなければならない」という誤りを犯してしまいます。

これは明らかに【破戒】なのです。








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仏教を考える 10. 事実

2015年04月26日 | 仏教
「事実とは言葉で表現出来ないもの」と言いますが、是れは「言葉の本質」について言われた事ではありません。

【言葉は、言葉の約束事について何事か語っているに過ぎません】


言葉の側で知りうるものは、言葉と事実の関係及び「我々が事実をどう見ているか」という、事実に対する我々の見方のみです。

【事実は事実そのものに成る事によってしか知り得ません。】

ここに仏教が出発します。


【言葉の世界では言葉に対応する事実があるという前提に立っています。】

仏教はこの事実を事実そのものとして自ら体得する道です。

ですから、問題意識をぶつけて自己の問題として究めて行くのが仏教なのです。


【仏教においては「実相は無相である、一切は空である」と説かれています。是れも自ら実証しない内は、一つの仮説のようなものです】

「事実はある」という事は、「事実がある、ない」という認識内容にあるのではなく、認識を起こしている者、即ち、自分自身にあるのです。


「自己の正体を見極める」「法(道)そのものに成る」事に因って、仏教の究極においては「今の自己の様子そのもの」であるという事を「本当にそうだ」と頷く事が出来るのです

この事に因りて、初めて日常生活(本来の修行)が行われなければなりません。




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仏教を考える 9. 言葉

2015年04月25日 | 仏教
修行の真偽は、実に「法(道)そのもの」が求められているか否かによって決まります。

何故「法(道)そのもの」が求められないかというと、【仏教と「法(道)そのもの」とを、混同している】からです。


ダルマ大師が黙って九年間坐られた事も、「無我、空、悟、無」も全く同一のものであって、只、言葉がそこに介在しているか否かの差があるだけだと考えられる節があります。

この混同上に立つと、【仏教の中に真意や究極を見、「法(道)そのもの」が仏教の一部であるかの如く見誤って】しまいます。


そもそも、「言葉」とは事実を表現するものではなくて、事実を我々がどう見ているかという事実に対する我々の見方を表現したものです。





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仏教を考える 8. 修行の到達点

2015年04月24日 | 仏教
仏教や歴代の覚者の考えを、究極と見誤ると、様々な問題が生じます。

仏教、祖録に焦点が固定されてしまう為に、自分の問題として、「自己の正体」を見極める事が疎かになってしまいます。


仏教を見聞(けんもん) するという事は本来解決済みの言葉を、そのまま受け取る事ではなくて、自己において解決すべき問題と受け止める事です。

ところが、仏教を真理として(仏教を絶対的なものとして) 見てしまうと、その内容を覚えてしまって、本来、基準や立場を持たない「法(道)そのもの」を求めるはずであるのに、我見(偏見、法見、空見) を持って、そこで行き詰まってしまいます。


修行とは、この我見を放ち落とすことでなければなりません。

【仏教の内容は、大変に魅力的です。結果から説かれている為に、一切の問題の解決を必ず見つける事が出来ます】


しかし、問題解決を仏教の中に求めて頷いている限りでは、絶対に問題の根源の解決には至りません。

【問題の根源とは、問題を生じさせている自分自身という事】です。


「自己の正体」を見極める事なくして、只、病気の徴候のような末端症状を、【仏教という薬】で、一時的に手当を行っていては、薬害という中毒にかかることは必定です。


修行における致命的な誤りは、【修行の到達点】を誤るという事です。

【修行の出発点は修行の到達点を決定します。】


「無我、空、悟、無」を出発点とした修行では、「無我、空、悟、無」という名前の自分が残ってしまいます。





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仏教を考える 7. 「法(道)そのもの」

2015年04月23日 | 仏教
仏教の修行は様々な問題を抱えています。

原因は只一つ、【「法(道)」が求められていない】という事です。

これは、仏教の究極が正しく把握されていないからです。


仏教の究極は、大変矛盾しているようですが、仏教の中にあるのではなく、仏教を越えたもの「法(道)そのもの」にあります。

「法(道)そのもの」が究極であるという事は、仏教の聞き方も、その修行も、「法(道)そのもの」に直結するものでなくてはなりません。

それによって初めて一切が絶学へ向く訳です。

ところが多くの人は、仏教や覚者と言われる方々の教えの中に究極があると見誤る為に、修行の様子も、仏教に直結してしまうのです。

その為すべての修行が習学へ向かって法理の上に立っての修行になってしまうのです。





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仏教を考える 6. 仏教と「法(道)そのもの」

2015年04月22日 | 仏教
いくら「四十九年一字不説」の注釈により、仏教が自己完結的な存在となっても、「法(道)そのもの」が示されなければ、仏教は何の意味もありません。


仏教の教えに「法(道)そのもの」がなければ、仏教は単なる宗教、色空の思想を説くものとして、他の宗教と何等変わりないものになってしまいます。


そこで私達衆生は、「仏教」と「法(道)そのもの」との関係を正しい関連において、知る事が大切です。

【仏教は「法(道)そのもの」から出発したもの】であり、仏教は【「法(道)そのもの」の説明に過ぎない】という事です。


したがって内生的には「四十九年一字不説」があって、外的には「法(道)そのもの」があって、初めて成立しうるものである事を忘れてはいけません。





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仏教を考える 5. 仏法の説かれ方

2015年04月21日 | 仏教
「方向指示としての仏教」という、仏教本来の役目を知る為には、仏法の説かれ方に注目する必要があります。


何故、おシャカ様は「四十九年一字不説」と言う説明で説法を了えられたのでしょうか。

何故、一切習学を否定し、絶学へと指導されているのでしょうか。



説法においては、常に説明内容ではなく、説明という事が一貫して問題とされている事に注目しなければなりません。

【説明された総ての内容が、もう一つ高い次元から否定されている】という事です。


言い換えれば、仏教は無常、無我、涅槃という「法(道)」の説明内容のみで成り立っているのではなく、「四十九年一字不説」と言う説明で説法を了えられていますので、そのものの否定をも含めて成り立っているのです。



ですから、仏教とは、全体として見ると自己矛盾的、反語的に説かれているという事も言えます。


「四十九年一字不説」の一語によって、妄想、分別、我見から離れ、総ての苦悩から救われ、方向指示という本来の役目を完全に演じていることにもなるのです。





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