活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

万物流転1

2017年07月31日 | 法理

おシャカ様よりだいぶ後の人ですが、ギリシャの哲学者

ヘラクレイトスが、

「万物(ばんぶつ)は流転(るてん)する、人も物も

流転している」

と言いました。

 

仏道にも同じように「無常」という言葉がありますが、

ヘラクレイトスの説には大きな間違いがあります。

 

どういう間違いかというと、ヘラクレイトスの説は、

「すべてのものが流転する」ということを、知っている

自分があるということです。

 

自分も一緒に流転をしていれば、流転しているということは

わからないはずなのに、流転していることを知っている

自分があるのです。

 

つまり、自分だけは流転していないわけです。

 

このように、流転しているものと、流転をしていないものが

あるために、ヘラクレイトスは「万物(ばんぶつ)」と

言いながら、自分を万物以外と認めてしまっているという

ことです。


山河は鏡中に在りて見えず

2017年07月30日 | 語録

「山河(さんが)は鏡中に在りて見えず」という

お言葉があります。

 

此方に鏡があって彼方から映るのではありません。

天地は一枚の「宝鏡三昧」なのです。

 

写すものと写されものとの相手があるのではありません。

 

「鏡」は初めから曇りのないものですから、磨けるもの

ではないのです。

 

無辺自在の世界です。

何が来ても来たものが映るのです。

 

これは「鏡」があると思ったら間違いです。

「心」がこの体にあると思ったら大変な間違いです。

 

我々自在の働きです。

「心」はコロコロと珠の盤を走るが如くに、人及び

天地と心は共通性のものです。

 

「無量無辺の大」を譬えただけなのです。

即ち「無我」です。

 

我の無いのが本当の鏡です。

「明鏡」はその譬えです。


生きる目的2

2017年07月29日 | 仏教

これだけは放すことが出来ないというものが、どうしても

残るものです。

 

その放すことの出来ないものを思い切って放す必要が

あります。

 

どこへ放すのか。

もともとないものだから、放すところもありません。

 

その辺のところは、すでに「空の中」にいながら

「空」に成ろう、「空」に成ろうとしている「我」が

あることに気が付かなければなりません。

 

どうか本当に手放しに成って「坐禅」をし、

「仕事」を為さって頂きたいと思います。

 

禅語でそのことを「実参実究(じっさん じっきゅう)」、

「実参実悟(じっさん じつご)」と言っています。


生きる目的1

2017年07月28日 | 仏教

私たち衆生の生きる目的は、無心、無我に成ることです。

無心、無我に成った人を「仏」と言っています。

 

私たち衆生の「一挙手一投足(いっきょしゅ いっとうそく)」

がすべて「空」であり、「無」であることを、言葉で言えば

仏法といっているのです。

 

ですから、「法」に成ればいいのです。

「法」に成るには「我」をなくせばいいのです。

 

「我」をなくするには、坐ればいいのです。

それだけのことです。

 

暑いときは暑い、嫌な時は嫌だ、半信半疑だ、

どれもがみんな「法」です。

 

比べるものがないから、本当は「法」もあっては

ならないのです。

 

 


菩提心を発す

2017年07月27日 | 道元禅師

「菩提心を発す」ということは「坐禅に成り切る」

ということです。

 

坐禅をしている時の坐禅であってはいけないのです。

 

即ち朝起きてから夜寝るまで「すべてが坐禅になって

いなければならない」ということです。

 

そのように心掛けていただくということが、

「菩提心を発して参禅弁道している」ということです。

 

別の言葉でいえば、油断のない生活をしていただく、

そのように理解して頂きたいと思います。


単純になって

2017年07月26日 | 

「禅」という字は、「示す偏に単」という字を書きます。

「単純になって」ということです。

 

いろんなことを考えずにその時のことを、本当に

「渾身心(こんしんじん)」打ち込んでするだけです。

 

そのことの連続なのです。

他に何もありません。

 

一所懸命にやっていれば一所懸命ということが

一所懸命の有様を教えてくれるのです。

 

人から教えてもらっても何にもなりません。


それだけのことではないですか。

 

しかし、「霊雲(れいうん)」という和尚さんは、

「それだけのことで三十年かかった」のです。


図作仏2

2017年07月25日 | 語録

禅というのは遠い将来のことや過去のことを云々

することではありません。

 

今のこの満足し尽くしている様子を自分でうけがう

ということです。

 

坐り方については、「一つに成ろう」とか、

「ああしなければならない、こうしなければならない」

ということ、そういう意識を一切働かせないようにして

本当に坐って坐り尽くすことです。

 

別の言葉で言えば、「今の事実に成りつぶれていく」

ことです。

 

そのことだけで足りることですから、務めて精進して

いただきたいと思います。


図作仏1

2017年07月24日 | 語録

道元禅師のお言葉に、

「坐禅かならず図作仏(ずさぶつ)なり、

坐禅かならず作仏の図なり」

との、お示しがあります。

 

これは何を物語っているかというと、

「不図作仏(ふずさぶつ)」。


坐禅をして仏に成れるものではありません。

 

ですから、「坐っているそのことが仏そのものである」

ということです。

 

私たち衆生の「今のその事実、自分の事実」です。

 

それを自分で「自覚」することです。

「成る程これで良かったんだ」ということを自分で

うなずくことです。

 

新しいものを求めるのではありません。

今のことです。

これからのことではありません。

 

何十年同じことを繰り返してきているはずです。

繰り返してきてはいるけれども、今のことなのです。


意識(考え)の中2

2017年07月23日 | 仏教

それだと、どれだけ坐っても「意識(考え)の中でただ」

になっているだけになります。

 

別の言葉で言えば、静かになって落ち着いているという

ことになってしまいます。

 

それはあくまで「意識(考え)の中」でのことですから、

どんなにいい状態があったとしても意識(考え)の範疇

にあるということを、自分でよくそういう「病」という

ものに気が付かないといけないのです。

 

ですから、「身心を挙げてものを見る」というように

務めていきさえすれば「自然(じねん)」に「ものと

一体と成っている状態」というものを自分で自覚される

時節があるのです。

 

そういう坐禅を徹底して頂きたいと思います。


意識(考え)の中1

2017年07月22日 | 仏教

「体全体を眼にしてものを見る」

「体全体を耳にしてものを聞く」

「体全体を鼻にしてものを嗅ぐ」

「体全体を舌にしてものを味わう」

ということを「身心」といいます。

 

身も心も一つに成る(一つにする)必要があるわけです。

 

「ものにはもともとそういう働きがあるのだから、

働きのまま、そのままにしておこう」という、

そういう意識(考え)が添ってしまうと、はじめから

「意識(考え)の中」で「任せている、そのままにしている」

という状態にあるということになります。