インド(おシャカ様)の法が中国に渡ったのではありません。
中国の法がそこで芽生えたということです。
法は輸入や輸出が出来るものではありません。
道元禅師もそうです。
「法」 を輸入してきたのではないのです。
私たち衆生一人一人が、みんな、
「法、そのもの」
なのです。
ですから、「法」 というのが二つも三つもあるものでは
ありません。
「自分が法そのものである」 ということに気が付いて
頂かなければいけないということです。
どのように気が付くが、その一番の近道は何か。
「ひたすらに坐る」 ということです。
坐って坐り切る、坐り尽くす、ということです。
そういうことが 「要求」 されるわけです。