活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

要求

2016年12月31日 | 法理

インド(おシャカ様)の法が中国に渡ったのではありません。

中国の法がそこで芽生えたということです。

法は輸入や輸出が出来るものではありません。

 

道元禅師もそうです。

「法」 を輸入してきたのではないのです。

 

私たち衆生一人一人が、みんな、

「法、そのもの」

なのです。

 

ですから、「法」 というのが二つも三つもあるものでは

ありません。

 

「自分が法そのものである」 ということに気が付いて

頂かなければいけないということです。

 

どのように気が付くが、その一番の近道は何か。

「ひたすらに坐る」 ということです。

 

坐って坐り切る、坐り尽くす、ということです。

そういうことが 「要求」 されるわけです。


坐禅の目標

2016年12月30日 | 坐禅

「自分は何の為に坐禅をしているのか」 ということを

明確にその力を強く保っていかないと、その結果、

「自分の坐禅はどうだろうか」

とか

「自分の功夫は間違っているのではないか」

とか、

「自分の精進が足らないのではないか」

とか、そういう枝葉末節なことが、

「自分の目標」 とすることよりも大きく感じられる

ようになってしまいます。

 

一にも二にも、「動中の功夫」、「静中(じょうちゅう)の功夫」

をおろそかにしないように自分の功夫に集中にして

いただきたいと思います。


法の世界2

2016年12月29日 | 

「法」 はどこにもあって、誰のものでもありません。

従って、真実の自己は、真実の自己そのもの

以外に知(識)ることは出来ません。

 

自分をも含めて人が坐禅をするのではありません。

 

同じように 「自分(人)」 が悟るのではありません。

悟りは一切、人というものの介在を許さない世界です。

それが 「法の世界」 です。

 

「法」 を知(識)らずに 「禅」 だけを知(識)っている為に

様々の修行の方向の間違いが生じます。

 

どうか 「法」 を求めて下さい。

そして、その 「法が無相であること」 を知(識)って

いただきたいと思います。


教外別伝(きょうげべつでん)

2016年12月28日 | おシャカ様

「教外別伝(きょうげべつでん)」 というお言葉があります。

「教えの外の教え」 ということです。

おシャカ様の教えというのは、すべて方便です。

 

したがって、

「今、なんとかしなければいけない、このままではいけない」

ということは、おシャカ様の教え、あるいは歴代の

覚者といわれる方々のお示しによって、そのお示しに従って

「その道を歩く」

ということ、そして

「一歩一歩月への距離を縮めていく」

ということです。

 

そうでないと、修行ではないことになります。そして、

「法も、道も忘れ、月も忘れすべて忘れる必要がある」

ということのために仏祖の教えというものは

あるわけです。

 

ほとんどの仏教教団の教えというものは、みんな

仏教を理解した概念の中からの教えに従って

成り立っています。

 

ですから 「教外別伝の法」 というものが、すっかり

忘れられてしまっている状態です。

「教外別伝」 は 「死語」 になってしまいつつあるということです。

 

それではいけないということで、一部では

「摂心(せっしん)」 〈 心をおさめる修行 〉

が行われています。

 

「このままでよかったんだ、これ以外に

法というものはないんだ」

という、そういうことに目醒めて頂きたく思います。

 

「今の自分のそのままに、様々な心の動きというものを

”成る程、そうか” とうなずくだけのこと」 です。


 

 


法の世界1

2016年12月27日 | 

「禅」 という一つの窓口が出来てから

「坐禅の功夫(くふう)」 と いうような言葉が

生まれました。

 

しかし、仏教全体では

「実相は無相なり」

と、言っています。

 

「本当の相(すがた)は相がないものである」

ということをよく承知しておいて頂かないと

大きな間違いが生じます。

 

従って今、「坐禅功夫」 をしている方は

「坐禅も無相に至る迄の方便」 ですから

坐禅功夫を消滅させて行くように、

坐が失くなるように坐っていただかなければ

なりません。

 

くれぐれも 「坐忘(ざぼう)」 というお言葉があることに

注意をはらって頂きたいと思います。


身口意(しんくい)の坐禅2

2016年12月26日 | 坐禅

商売をしている方は、「毎度ありがとうございます」

と、あいさつされると思います。

これが、商売している方々の 「口の坐禅」 です。

 

その他にも 「法」 も 「道」 も 「禅」 もあるはずが

ありません。

 

それに成り切り、成り切りしている訳です。

「禅を知(識)らない人」 でも必ずそうなっている

のです。

 

「禅」 とか、「法」 とか、「道」 とか、「功夫」 とか、

そういうものを知(識)ると、

「こうしていることが禅なのだな、これでいいんだ」

というようなものが必ず出て来て、「禅病」 に近い

状態になってしまうのです。

 

三度の食事をすると思います。

これはみんな 「口業(口の坐禅)」 なのです。

 

一所懸命に口を開けて食事を頂くことは

「食事三昧」 に成っているはずです。

 

仕事をしていれば、その立場、立場にあたって

ああしたらいいか、こうしたらどうだろうかと

計画を巡らします。

 

「こころくばり」 を漢字で書くと 「心配り」 になります。

これは全部 「意の坐禅」 です。

 

そうしてみると、行住坐臥、身口意の三業、煩悩

といわれているものは、全部、「禅」 である

ということになるのです。


身口意(しんくい)の坐禅1

2016年12月25日 | 坐禅

坐禅というのは 「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」、

つまり、私たち衆生の日々の生活そのものです。

 

「平常心是道(びょうじょうしんぜどう)」 であり、

「身口意(しんくい)の三業(さんごう)」、即ち

「身と口と意(こころ)の煩悩」 も 「坐禅」 なのです。

 

「菩薩は煩悩をもって悟りとなす、

凡夫は悟りをもって煩悩となす」

というお言葉があります。

 

同じ物ですが、自分が 「空」 になってからと

「空」 になる以前というのは、それだけの

相違が出て来るということです。

 

有名な趙州(じょうしゅう)禅師は、

「昔は十二時(時間)に使われていたが

実際自分が目醒めてみると、十二時を

使うようになった」

と、語っています。

 

「身口意の坐禅」 ですが、三業(さんごう)

「身業、口業(くごう)、意業(いごう)」

ということがありますが、今こうして静かに

心を起滅するものを一切相手にせず

邪魔にせずに坐っている様子が

「身の坐禅」 です。

 

作務(仕事)も 「身の坐禅」 です。

ただそれを禅と名付けないだけの話で

坐禅を知らない人でも、知っている人でも

みんな坐禅を行じているのです。

 

知(識)らずに 「禅の真っ只中」 にいる

ということです。


三つの心得

2016年12月24日 | 道元禅師

道元禅師は修行者に三つの心得をお示しになって

居られます。

 

即ち、

「菩提心」

「慕古心(もこしん)」

「実を求める」

です。

 

第一の 「菩提心」 ですが、その 「菩提心」 について

「大日経(だいにちきょう)」に

「云何菩提(いかんがぼだい)」

「謂如実知自心(いわく実の如く自心を知る)」

と。

 

求道者(ぐどうしゃ)は、自らの 「心の実相」 を覚知

することであるとあります。

 

「実相は無相である」 という 「法」 に目醒めて、

一切衆生を救おうという気持ちが「菩提心」です。

 

第二に「慕古心」ですが、おシャカ様を始めとして

歴代の法を得られた覚者をお慕いするということです。

 

第三の 「実をもとめる」 ですが、その 「実」 とは前述した

「自らの心の実相」 ということです。

 

しかし、私たち衆生はすぐに 「我見」 を起こして、他に

「実」 を求めてしまうのです。

 

この我見の根源を見極めて

「如実知自心(実の如く自心を知る)」

となる方向を指し示したものが、おシャカ様の教え

なのです。


不要

2016年12月23日 | 

坐禅が 「不要」 になる時が必ずあります。

 

「不要」 というのは、何をしていても 「坐禅」 だ、

何をしていても 「法」 だ、何をしていても 「道」 だ、

というものの中にいるということです。

 

ですから、

「人は死ぬまで修行だ」

という人がありますがそれは間違いです。

 

人には 「死」 というものはありません。

人だけではありません。

一切のものには、始めがありませんから

終りもないのです。

 

修行もそうです。

「道」 を究めれば、終わりがないことと同じです。

 

そして、一切の跡形がなくなるということでないと

ほんとうに 「道」 を究めたことにはなりません。

 

ものを忘れ、忘れたものをも忘れるということは

本当に大変なことです。

 

これは「悟後の修行」とか、「悟前の修行」 とか

いうものではありません。

 

もともと 「不要」 なことだからです。

「迷い」 があるということが間違いなのですから、

その間違いの中で 「迷い」 をなくしたというのは

「二重の間違い」 になるわけです。

 

しかし、それに気が付かないと間違いだということも

分からないわけですから、一応、

「悟りを得た」

という事がありませんと本当のことがよく自分の

ものにならないということは、当然のことです。


獅子身中の虫2

2016年12月22日 | 語録

「わかったという事」 と 「体得をしたという事」 は

まったく無関係です。

 

道理がわかっているので、一応は散乱した

心を抑えることが出来ますが、非常に無理が

あるということです。

 

無理をしているということです。

そういう状態では本当の悟りは甚だ縁遠い

という事です。

 

しかし、こういう「禅の病」を持った人が多いと思います。

そういう人は

「法に住していることで、自分が ”空の状態” に

なっていることを自分自身で良しとしてしまいがち」

なのです。

 

そういう事は全部

「(法)というものの上に立っている自分がある」

という事に気が付いていただかなければなりません。

 

また同時に、

「法を知って、法を使うという事」

を知ってくるので二重三重の誤りになってくるのです。