活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

本来の姿 1

2016年06月30日 | 

いい加減なことで坐っている人は一人もいないと思います。

それぞれ皆一杯一杯、精一杯の努力をなさっておられると思います。

 

そういう様子を禅の言葉で

「一塵を動かさず、一相をやぶらず」 といいます。

 

「一塵」 とは、毛筋ほどの塵ということです。

眼に見えないほどの塵も動かさないという事です。

 

「一相」 とは、姿です。

ですから、本当に自分のもとの、本来の姿というものは

ズ―ッと最初のない初めから、終りのない終りまで

「一塵をうごかさず、一相をやぶらず」 の状態なのです。


信じるという事3

2016年06月29日 | 法理

衆生(あらゆる存在物)の中で、この身のある内に、早く 「自分の正体」 を

見極める必要があるのです。

 

何故ならば、六道輪廻(りくどう りんね)している間で人間界の世界に

居る状態は、ほんのわずかな時しかないからです。

 

私たちの日常生活を反省しても、(例えば一時間前でも)、天上・修羅・

畜生・餓鬼・地獄界(五つの道)をぐるぐるめぐっているではありませんか。


信じるという事2

2016年06月28日 | 法理

「道」 としては、「自分の今の状態」 が 「事実」 であり、そのもの以外に

「事実」 はないという事が自分でよく分かり、信じられたとしても、

人として信じるだけそこに隔てがあるものです。

 

ですから、いくら 「そのままで善し」 と言っても、自分では許されないものが

残るものです。

 

そこで、万止むを得ず、多少の時間をかけてでも、修行が必要になって

来るのです。


菩提達磨大師 2

2016年06月26日 | 仏教

達磨大師は六度毒を呑まされましたが、五度までは死ななかったのです。

毒皿を石の上に投げて石の方が割れたという話があります。

 

達磨大師の肖像画を御覧になると、中に歯の欠けた達磨の画があります。

これは反対派が石を投げた為には歯がかけたのです。

それ程の迫害に遭っても一転の怨みもないのです。

 

その証拠には、彼が死ぬ時賄うということを云ったのです。

「五口相共に行く 九十にして 彼我無し」 と。

 

「九十」 とは卆(そつ)で 「卒」 という字の略字です。

「五口」 を合すると 「吾」 の字になります。

 

「吾汝と共に行かん」 ということです。

「元(本)」 は一つのものです。 

怨みは無いぞ、彼我の 「差別(しゃべつ)」 は無いぞ、というのです。

 

キリスト教では 「汝の敵を愛せよ」 と言いますが、達磨大師には敵が無いのです。

一点の怨みも無いのです。

 

隙間のあるものは、どうも怨みが出て来るものです。

隙間がなければ怨む心が起こらないのです。

 

菩提達磨大師 2015/11/22

柔軟心を得たり 2

2016年06月25日 | 道元禅師

道元禅師は柔らかに成っただけだというのです。

それでなければ衝突します。

 

一人柔らかに成ったということは世界が柔らかに成るのです。

関係が大きいです。

「一人」 は宇宙と種々に関係しているからです。

 

もし、人が 「我」 を瞋(いか)らせようとする時、「我」 はどういう関係をして

防ぐかということがあります。

 

それは、「大馬鹿者」 に成る事です。  そういう時は笑って迎えるのです。

とにかく一つのものです。

これによって 「貪欲」 も 「瞋り」 も出ないものです。

 

私たち衆生は 「瞋らぬ」 という 「柔軟心」 というものを誓おうではありませんか。

それでなければ 「唯物知り(物識り)」 になっても何にもなりません。


柔軟心を得たり 1

2016年06月24日 | 道元禅師

道元禅師が中国から帰られた時に、どういう事を得たかと質問した人がありました。

 

すると禅師は只、「眼横鼻直(がんのう びじょく)」 と、

抹香臭いものは何にもないと答えられました。

 

又、「何の不思議もなかりけりだ」 と答えられました。

 

それでは、何の効果があるのかと又問われたのに対して禅師は

「唯少(しばら)く 柔軟心(にゅうなんしん)を得たり」 と、

ただ近頃心が軟らかになったぞと仰ったのです。

 

柔らかに成らなければ駄目なのです。

「柔軟心を得たり」 ということは、「塊り」 がなくなったということです。

 

「氷」 が溶けて 「水」 になったのです。

それが 「修養の結果」 です。


ものの価値 2

2016年06月23日 | 語録

仏教は超越者への信仰を説かず、合理主義と適合するところから

どのような宗教や思想も安易に受け入れて、しかもそれらを大きく活かして

用いる力と寛容性があります。

 

さらに 「禅」 は、すべてのものの 「実相」 を 「無明」 であると説き、

又ある時は 「空」 であり、「無」 であると説いています。

 

しかも、「教外別伝・不立文字(きょうげべつでん・ふりゅうもんじ」

と言われるおシャカ様の 「法」 は一人ひとり自らが 「証明」 することが出来る道です。


ものの価値 1

2016年06月22日 | 語録

ある高僧が指導者に 「世間で最も尊いものは何ですか」 と尋ねました。

すると指導者は、そこら辺に転がっていた猫の死骸を指さし

「死猫児頭(しみょう じとう)最も尊し」

とお答えになりました。

 

するとある僧が

「何故そんな価値のないものが、世間で最も尊いのですか」

と重ねて尋ねると、指導者は

「人の値(あたい)をつくるなし」

とお答えになったということです。

 

この問答は人間は有限(値)のものを嫌い、より無限のものを喜ぶものです。

言い換えれば 「相対」 より 「絶対」 を求めるということを物語っています。

 

「生」 に対する 「死」

「迷い」 に対する 「悟り」

「凡」 に対する 「聖(しょう)」

「利益」 に対する 「損失」

「成功」 に対する 「失敗」

など。

 

相対的な価値判断の中から出て来た結果には、限界があり

本当のものではない間違いだということです。


一日の差

2016年06月21日 | 仏教

織田信長が 「自分と同年同月同日に生まれた者があれば出て来い、褒美を取らせる」

という御布令を全国に出しました。

 

一人名乗り出て来たのです。

「私でございます」 と言って乞食坊主が出て来ました。

信長は云いました。

「世の中は様々である。俺は内大臣に成っているのにお前は乞食同様である、これも何かの因縁であろう」

と云って金子を与えました。

 

「お前は苦しいだろう」 と信長が問うと、

「いや、苦しくなどありません。あなたと私は一日の差です。

今日あなたは内大臣で、私は乞食であるけれども昨日までのことは、今日、何も残っておりません。

翌日になると今日はありません。

明日あなたは殺されるかもしれません。私も、何に成るか判らない。

一日違いである。」

と。

 

「俺よりお前の方が偉い」

と、信長は大変感心しました。

やがて信長は明智光秀によって殺されてしまったのです。

この乞食坊主のように一日違いという道理を考えて頂きたいと思います。


昨日までは既にありません。  明日のことは未だ来ないので判りません。

是は全く真理です。

 

「君様(きみさま)と ただ一日の隔てなり 昨日過ぎつ 明日は知られず」

と詠んだといいます。

 

又曰く、「昨日よりも 明日よりも 今の桜かな」

と。