「分からない」というのは、「分からない」という「結果(事実)」
だけしかありません。
「修行(禅)」に於いては、「分からないということ」を親切に参究
していく必要があるのです。
「参究する」ということは、「分からないという、そのものに成る」ことです。
「分からないということ」を自分の問題意識として日常生活を送らないと
おシャカ様や歴代の覚者のお言葉を理解することが、「修行(禅)だ」というような
非常に誤った考えに陥ることになってしまいます。
「分からない」というのは、「分からない」という「結果(事実)」
だけしかありません。
「修行(禅)」に於いては、「分からないということ」を親切に参究
していく必要があるのです。
「参究する」ということは、「分からないという、そのものに成る」ことです。
「分からないということ」を自分の問題意識として日常生活を送らないと
おシャカ様や歴代の覚者のお言葉を理解することが、「修行(禅)だ」というような
非常に誤った考えに陥ることになってしまいます。
私たち衆生は、「修行(禅)というもの」を知識としてよく知っています。
「知った上」で善い悪い、解決したしない等と様々な考えを巡らせて
「修行(坐禅)」を行じています。
人間(にんげん)の知恵で考えたものは、絶えず変化し移り変わっているために
知れば知るほど「分からない」ということが出て来ます。
そうすると更に「分からないもの」があるから「修行(坐禅)」をして
「分かるように成ろう」などと考えて、「修行(坐禅)」を手続きや方法として
用いるためにますます自分と「修行(坐禅)」とが離れてしまい、その結果
いつまでたっても「法、道、禅、修行等」が残ってしまうのです。
「相対的な人の考えでつくった約束事」で「平和」だということだったら
いつか必ず壊れることがあります。(永遠に続く平和というものは無いわけです)
一つに成らない限りは本当の意味での「平和、永遠」ということは無いのです。
「存在(人間)」の発生の根源は何だろうと考えても分かりません。
何故ならば「無い」からです。
自分が皆、つくっているからです。
結果は一つしかありません。
「今、今の事実、今の自分の様子」を「自分のものにする」かどうかの問題だけなのです。
人間(にんげん)の考える「無い」ということは、「有る」ということに対しての
「無い」しか考えられないのです。
そもそも人間がどうして出来たということは、誰にも分かりません。
分からないのに物心付いてから「これが自分だ」と思い込んでしまったところから
「全て自分が基準」に成ってしまいました。
極端な話をすると、戦争の時だと「人を殺す」ことが「善」になって、平和の時は
それが「悪」になるということです。
戦いというのが全部「聖戦」になって「悪い戦争」をしている人はひとりもいないのです。
全部「善い戦争」をしていることになっているのです。
そもそも「平和」というのは、一つに成らなければ「平和」には成りません。
「説法」というのは「法の要」を説くことです。
しかし、その要が説かれない為に今日の宗教界の様相をさらけ出してしまいました。
今では、「法要」というと「仏事(法事)」でお経を読むとか、亡くなられた方の
葬儀が営まれる時だけに使われる言葉になってしまいました。
しかし、本来は「法事」は「法の事」と書き、「法要」は「法の要」と書くように
「仏事(法事)」や法要、葬儀などあらゆる「縁」をとらえて、そういう場所で
宗教者は、「法の要」を説くことでなければなりません。
「法を説明する(法を理解してもらう)」のに「比喩(ひゆ)」はいくつかの
手段の中でも「法を求める人」によく使われるものの一つです。
しかし、「法を求める人」に対しては適切な表現方法であったとしても、
「法に関心を示していない人」に対しては、「比喩」は実際とはかけ離れた
ものの観念を心の中に造り出すだけで終わってしまう危険をはらんでいるのです。
おシャカ様曰く、「縁無き衆生は度し難し」なのです。
何故ならば、私たち衆生の心の中で造り出されている観念によって「解釈(理解)」
しようとするために数多くの間違いを生み出すことになるのです。
「自我意識」があるうちは、「法」といっても、それは私たち衆生の心が造り出した
「一個の観念」であり、「法そのもの」ではないのです。
「法の説明をする(理解してもらう)」ということは、どのような「観念(説明)」
であれ、それはひとつの枠組を造って、それ以外のものは排除することになります。
だから、「法」について覚者が、私たち衆生の多く用いている言葉や観念(説明)をもって
「法」をわかりやすく説明する(理解してもらう)には、かなり厄介な問題が生じるのです。
法を説明する(法を理解してもらう)時には、「実相(実在、今の事実)」とは
過去のことを説明する(理解してもらう)ことになってしまいます。
「説明」を聞いて、「実相(実在、今の事実)」を「理解」しようとすれば
その人もまた同時に、過去のことを「理解」しようとすることになってしまうのです。
「法を説明する(法を理解してもらう)」時に、「その状態(事実)」を描写する
ことは原理的に不可能です。
何故ならば、「説明する(理解してもらう)」という作業には、「日常的な意識の中
(五官を通した意識の中)」で制約された「観念(言葉)」を用いる以外に方法が
ないからです。
しかし、仏教は「自らが自らを完全に救い得たことを自覚する(立証し得る)道」です。
※「五官」--眼・耳・鼻・舌・身(触)のことです