活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

平常心是道 1

2015年06月30日 | 語録
「平常心」が仏道そのものである事を、理解していただきたい為に少々重複になりますが「平常心是道」という語録で説明させて頂きます。


弟子云く 「如何なるか 是れ道」 (仏道とは何を云うのでしょうか?)

南泉云く 「平常心、是れ道」(日常の生活の総てが仏道である)


弟子云く 「還って、趣向す可きや否や」

(平常心が仏道そのものである事を知るには、どのように修行したらよろしいのでしょうかと、再問)

南泉云く 「向かわんと擬すれば即ちそむく」

(脚下を照顧してみなさい、足はすでに地についているではないか、道の中にいるではないか、探し廻れば反って道から離れてしまうではないか、と)


弟子云く 「擬せずんば如何でか、是れ道なることを知らんや」

(思慮や分別を用いて段々と道に近寄らなければ、初心者にはどうして「平常心是道」が分かりますか?、と)


南泉云く 「道は知にも属せず、不知にも属せず、知れ是れ妄覚、不知は是れ無記、若し真に不疑の道に達せば、なお大虚(たいきょ) 廓然(かくねん) として洞豁(とうかく) なるが如し、あに強いて是非すべけんや」

(道というものは、知る事でもない、又知らなくてよいというものでもない、もし知ったという事があれば、これは妄想である、もし知らなくても良いという事であれば、これは無記、どちらつかずである、目の前にあるものを明らかに見なさい、と)


弟子云く 「州 〈弟子〉 言下(ごんか) に頓悟(とんご) す」

(平常心是道を自分のものとする事が出来たのです)



何をしていても、どんな事を考えていても、すべて「道の中の生活」なのです。

ただ、自分が気が付かないだけなのです。

別の言い方をすれば、今している事に気が付くか、気が付かないか というだけの事です。

老婆心切 (ろうば しんせつ)

2015年06月29日 | 語録
私達衆生は、「道」という言葉を聞くと、何か「特別な道」があるような気がするものです。

そのように「言葉」とか「文字」は、【認識】されるが早いか、直ぐに意義付け・意味付けられてしまいます。


「道」には、意義付けや意味付けがあってはいけないのです。

「道」を探そうと思って修行したならば、「道」から益々遠ざかります。

それは既に「道の真っ只中」にいて、あるいは「道を歩いていながら」、「道」はどこにあるのだろうかと探す事に等しいからです。



「道」が分からない者にとっては、「道」は「探さなければ、求めなければ、分かろうとしなければ、修行しなければ」到底分かるものではないと思うものです。

別の言葉で言えば、「手段や方法」というものから入らなければ、「道」を知る事は出来ないのではないかという意味です。


それに対して有名な南泉和尚は、「平常心是道 (へいじょうしん ぜどう・びょうじょうしん ぜどう)」という語録の一節で、次のように示されています。

「道」というものは、知る事ではないし、又、知らなくてもよいというものではない。

もし、知ったという事があればこれは「ないものをあると思っている」事である。

又、もし知らなくても良いという事があれば、これは「どちらつかず」である。


一体何を南泉和尚は言いたいかと言うと、「今の事実を見なさい」「目の前にあるものを明らかに見なさい」という事です。

そして「自我」というものの認めようのない状態を質問者に分かってもらいたかったのです

これが「老婆心切」というものです。


南泉和尚は更に老婆心切で後進の私達衆生に、「本来自己のなかった事」に目醒める事、分かる分からないという事は小さくて限りがあるので際限のないもっと大きな自分に目醒めて下さい、と示しているのです。



平常心とは

2015年06月28日 | 語録
「平常心 (へいじょうしん・びょうじょうしん)」という言葉は一般では極当たり前の事、あるいは、何時もと少しも変わらない事のように理解され、その他に深い意味があるという事は、余り考えられてはいないようです。

しかし、仏道ではこの「平常心」こそが、仏道修行の出発点であり、又、終着点であるのです。


別の言い方をすれば、「平常心」というのは私達一日の生活そのものです。

朝起きてから夜寝るまで色々な活動すべて、極当たり前の日常の生活という事です。


しかし、ここで「平常心」と殊更指摘すると私達衆生は今、自分の生活をしている状態をちらっと振り返ってみて、

「あっ、これか、この状態が平常心か、これが仏道か」と、すぐにそういう自分の様子を認識してしまうものです。


「平常心」という言葉を聞く前は、「平常心」という事を知らなかったはずです。

知らなかったという事は、分かる分からないに関係なく、いつでもそういう状態にあったという事なのです。

いつでも「道」からはずれてない生活をしていた、という事をなのです。


「平常心」や「道」に、意義付けや意味付けをしてはいけないのです。

おシャカ様や歴代の覚者といわれる方々は、【「平常心」をも】離れる事によって覚者なのであり、私達衆生は「平常心」に拘束されるこによって【衆生】なのです。

ありのまま 2

2015年06月27日 | 法理
私達衆生には、本来 自我というものは在りません。

自分がものを思っているのではありません。

思ったら思った時のものだけなのです。


同時に二つの事を思う事は出来ません。

【今までの思いがなくなった時は、全部自分が生まれ変わっている】という状態なのです。


人でも物でも皆いつも新しく生まれ変わっているというのが、おシャカ様の考えです。

そういう状態を「ありのまま」といっています。


ですから、分別を用いるのではなく分別のままに、善悪を推し量るのではなく判断するままが「ありのまま」の状態なのです。


修行 (今の事実に徹する) とは、「今」やらなければならない事を、一所懸命になってやる、それしかありません。

「今」のままになって、考えながら行動しているわけですから、そのままになって、己見を交えずに、ひたすらに成りきっていかなければならないのです。


ありのまま 1

2015年06月26日 | 法理
鏡はそのものをズバリ映していますが、鏡自身は汚いとも綺麗とも、好きとも嫌いとも、何も語っていません。

鏡に映していること自体も認識していません。

このように鏡に映った様子を【ありのまま】と言い、私達衆生の一挙手一投足が、すべてそういう働きをしています。


ですから、鏡の様に映るがままに任せて送ったとが出来れば私達衆生は、いかなる場合でも「ありのまま」に、そのまま受け取って生活をし、きちんと全ての物事が解決しているという事です。

ところが、なかなか「ありのまま」になることが出来ません。

何故かというと、そこに「自我」の働きが介在するからです。


そして、人間 (じんかん) の生活においても、言葉以外のところに相手 (もの) の様子や、その持つ意味を考えてしまっています。

百人いれば百人の考え方や意識の中で、自分の生き方というものをこしらえ、生かされてしまうようになります。


その結果、私達衆生は「ありのまま」になれなくなる訳です。


素直とは

2015年06月25日 | 法理
自ら生じる衝動に対して、抗わない様子を「これが、素直な状態である」と考えてしまう人が多いと思います。

衝動とは、反省や抑制無しに行動すること、又その際の心の働きと定義されています。


「今の自分の素直さ」という事を真に掴んでいないと、「衝動的に行動する」と、捉えてしまう危険性があります。


「素直」という事は、言葉や文字に表す以前に、既にひとりひとりの身に備わり行動に現れているのです。
したがって、「これから素直になろう」とする考えは、間違いです。

「素直でない」とは、自分の考えを立てて、今の様子に手をつける事をいうのです。


「それでは、自分の今の様子とはどのようなものであろうか?」という事を絶えず自分自身に問いかけながら、「今の自分」に素直でない様子に気付いていく事が最も肝要ではないでしょうか。

純粋な働き 2

2015年06月24日 | 仏教
そこで、指導者はそれぞれの働きのままにしておく指導をしている訳です。

自分の取り計らいさえ用いなければ、綺麗なものも汚いものも、見たいものも見たくないと思うものでも、きちんと眼に映しているではありませんか。


それほどに因縁生はそのままの無自性なもの同士ですから、遮るものがありません。

遮るものは、「私」の都合によって本来の機能を失わせているだけです。


ですから、こちらがきちんと解決さえすれば、世の中はすべて平和になるのです。

どんな状態であっても、そのまま納得出来るという事です。


私達の体も、ひとつひとつの機能がいつでもそれぞれの機能そのままに働いているから、迷わずに済んでいる訳です。

問題は、私達衆生は本来は「我見」というもので、ものを見ている訳ではありません。

けれども、どうしてもひとつひとつの働きを自分の都合のいい方向に持っていこうとするものですから、葛藤が起きるのです。

それだけの事です。

「本来は手の付けようがないものである」という事を分かってもらいたいのです。

純粋な働き 1

2015年06月23日 | 仏教
因縁生という事をよく申し上げていますが、一切全てのものが因縁によって出来ており、実体はありません。

これは、決して人がつくったものではありませんし、私達自身も皆因縁によって出来ています。


ものがどうして出来た等ということは分かりません。

それほど実体のないもの同士が生活している訳です。


あるいは誰がつくったものでもない、いつ、どのようにして出来たか分からないのです。

本当に中心のないものですから、見たら見たものとひとつ、聞いたら聞いたものとひとつになれているという事なのです。

隔てをつくるもの、区別をつけるものはないのです。


私達の内臓器官を考えてみて下さい。

それぞれの器官や機能は皆それぞれの働きをしています。

私の為にとか、誰の為にという事ではありません。

純粋にそのような働きだけがあるものです。


又六根 (眼、耳、鼻、舌、身、意) も、どんなものでもそのまま見えているし、そのまま聞こえています。

純粋にそのような働きだけがあるものなのです。

ところが、この身を認めて自分だと思っているものが、そういう純粋な働きをしているものの邪魔をするのです。

そのために、素直に見えている(これから素直に見ようと思うのではありません、すでに素直に見えているのです) ものをわざわざ「私の都合によって」という見方をするのです。


これは、そのものの働き以外のものなのです。

そしてものと自分との間に、わざわざ「素直」などという邪魔をするものを作って、見たり聞いたりするために、構える姿勢が出てきてしまう訳です。

そして、次から次へと「素直に受け入れよう」という考えを巡らしてしまうのが、私達衆生の日常生活の実態なのです。



因果無人 (いんがむにん)

2015年06月22日 | 
今は自由にものが言えるようになりました。

同時に民族意識とか民族の思想というものが、厳しく言われるようになってきました。


そこで好き勝手な事をして秩序が乱されたり、階級が無くなったり、今、世界中が混沌とした状態になっています。

よほど各々一人一人が、自分の存在というものをはっきり【「法 (道) のまま = 差別 (しゃべつ) のまま」に活かして生きていかないと、力の強い者が力で抑圧したり、思想を統一して「平等だ」「格差の是正だ」「民主主義だ」といいながら、人の自由を奪ってしまうことになりかねません。


本当に「平等と差別 (しゃべつ)」がよく理解された新しい秩序が出来てこなければなりません。


秩序や階級は、全て因と果が元になっています。

大きな因をつくれば大きな果を得るし、小さな因をまけば小さな果を得るのです。

これは、理(理論) として当然な事です。


ですから、誰がつくったものという事は言えないのです。

これを、因果無人 (いんが むにん) と言います。


私達衆生の日常生活というのは、必ず「私」というものの知らないところで見たり、聞いたり、泣いたり、笑ったり、喜んだり、悲しんだり、というような様々な日常生活が行われているのです。

その事実を知っていても、知らなくても【そういうようになっている】という事です。

実に不思議 = 思議 という考えの及ばないところです。


【前後を見ない】で「今の事実に徹して」下さい、「今の自分の様子を見極めて」下さい。

そうすれば必ず秩序が保てるし、階級もそのまま「ありながらない」と等しい状態で、平等の生活が出来るという事です。

六境 (六塵) とは 1

2015年06月21日 | 仏教

六根 (眼、耳、鼻、舌、身、意) から入る様々な様子を、六境 (ろくきょう) 又は、六塵 (ろくじん) と言っています。

六境 (六塵) 「色 (しき) 、声 (しょう) 、香、味、触 (そく) 、法 」を知覚する、眼識、耳(に)識 、鼻識、舌識、身識、意識を総称して六識 (ろくしき) と、言います。


この六識の対象となる六つの境界を六境といい、又、心を汚す六識の対象として六塵とも言っているのです。

今回は六境の中の二つ 「色 (しき) 、声 (しょう)」をあげて説明します。

「色 (しき)」というのは、「色(いろ)」という漢字ですが、ここでいう「色 (しき)」とは、【すべての物質】を言っています。

様々な物質が色々 (いろいろ) に形を変えている訳です、。


ところが、そんなに様々な物質の異なった様子が見えるのですが、見る“まなこ (眼)” は【ひとつ】ではないでしょうか。


声 (しょう) についても、大きな声 (こえ) もあれば、小さくて耳を澄まさなければ聞こえない様な 声 (こえ) もあるでしょう。

それから、非常にきれいな声 (こえ) もあれば、そうでない声 (こえ) もあるような状態ですけれども、聞くほうは【耳ひとつ】です。


ですから、眼 (め) を開ければ全てのものが見えるし、聞こうと思わなくても一切のものが聞こえてきます。


自分という考えを用いなければ、鳥の声は鳥の声として、犬の声は犬の鳴き声として、間違いなく そのもの、そのものの様子がきちんと眼にも見え、耳にも聞こえてくる訳です。

しかも、その相手は様々異なっているけれども、みんなひとつではないでしょうか。


ですから、いつも申し上げているように、元を探れば、ひとつのものが分かれているだけです。

それを分からせないのは、自我の働きの為に、様々な隔てを作っているという事なのです。

この分かれている状態を「差別 (しゃべつ)」と、言っています。

【世の中のありとあらゆるものは、皆ひとつのものだけれども、同じものはひとつもない】という事です。