活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

迷いとは

2017年09月30日 | 法理

ものを正しく考え、正しく見るという「正」の字は「一つに止(とどまる)」

と書きます。


「本来一つしかないもの」を正しいとか正しくないとか、好きとか

嫌いだとか相手の側にそういうものがあるように思って迷っているのは

「正」ではありません。


「迷い」というのは対象に迷わされるのではなくて「自分の中の自分の象徴」と

「本来の自分」とが葛藤を起こしていることなのです。


従って、どんなに素晴らしい教えでも、他からの教えに因って、

自分の迷いをなくすことは出来ません。


迷いは迷いのままに任せておかなければ、迷いは解消しないのです。


絶学2

2017年09月29日 | 仏教

おシャカ様は「一見明星」して初めて自分というものも含めて

「法」でないものは無いという事に気付いた人です。

 

「自分の法」の中にいて「法」を修行しているのです。

 

ですから、どんな恐れも迷いも不安も「恐れという法」

「迷いという法」「不安という法」なのです。

 

それがそうと気付けば煩悩は菩提になり、迷ったまま悟り

となり、不安のままが安心(あんじん)に成るのです。

 

自分の意識の中に異質なものが入り込むということは絶対に

あり得ないということです。


絶学1

2017年09月28日 | 

困りに困っていた人が、迷いから離れたり、苦しみから逃れる

ことが可能なものが「法」です。

 

それを十分理解しておいて頂きたいと思います。

そのことが本当に理解出来ないと、坐禅が「習学」になって

しまいます。

 

禅の修行は「絶学」でなければなりません。

 

ひと息、ひと息が全部一息(いっそく)という呼吸そのことで

脱落しなければならないようになっているのです。

 

しかし、なかなかそういうことに気が付かないのです。


どうしても何か特別なものを求めたくなるということで、

禅を学ぶ「習学」になってしまうのです。

 

この世界に存在するすべての「差別(しゃべつ)」のままの状態を

「万法(まんぽう)の差別」といいます。

 

そして、それを「法」といっています。

 


全異全同4

2017年09月27日 | 仏教

しかし、「眼横鼻直(がんのうびじょく)」はどこまでも

同じです。

 

「四大仮和合(しだいけわごう)」は、どこまでも同じなのです。

 

因縁は各々(おのおの)異なりといえども、無自性なることは、

どれも同じなのです。

 

ですから、どうしても「自己という塊り」を認めようがないのです。


全異全同3

2017年09月26日 | 仏教

般若心経の「色即是空」とは「色」に惑う人の為に設けた

「応病薬」なのです。

 

「空即是色」は「空」に惑う人の為の一時の設けです。

本来は、「空即空」です。「色即色」です。

 

男性これ男性、この男性は、かの男性ではありません。

女性これ女性、この女性は、かの女性ではありません。


全異全同2

2017年09月25日 | 仏教

いくら遠ざかっていても同じものなのです。

それほど親しいものはありません。

 

離れていながら一つ物なのです。

「元来一つ物」なのです。

 

「波」は変われども、「水」は一つなのです。

「全異波全同水」なのです。

 

「同」に偏してはいけないし、「異」に堕してもいけないのです。


全異全同1

2017年09月24日 | 仏教

世間法すべて「名(な)」です。

「物物元来同一性(もつもつがんらい どういつしょう)」です。

 

「四大(地・水・火・風)」は古今に通じています。


同じものから「縁」に触れて千差万別があるのです。

言い換えると、千差万別のままで同じものなのです。


これを「全異全同」といっています。

 

男性は男性、女性は女性、天は天、地は地と別々にいて

そのままで一つ物なのです。

 

 


身心脱落・脱落身心

2017年09月23日 | 法理

「此の物(自分自身)」は、今の私たち衆生の考えている、

思っている「体」といい、「精神生活」というものから外れている

のです。

 

ですから、「此の物(自分自身)」を無くする事ではありません。

 

現在の皆自分を問題にしているものから、かけ離れた生活があると、

この様にあるのです。

 

「知(識)らないうち」にひとつに成れ、次のことが、それを

捨てなくてもきれいに入って来るのです。

 

何故なのでしょうか。

 

それは、始めから身心を脱落・脱落身心しているからです。

 

そういうことは、やはり自分を捨ててみないとはっきりしない

のです。

 

「新三法印(実相無相・不知不識生・本来成仏)」を体得

しなければならないのです。


修養について4

2017年09月22日 | 法理

言葉の約束の範囲では、「こういい得ます」と言えるのですが、

「これが真実であるかないか」といったら問題があると思います。

 

ですから、多くの哲学者は最終的に「宗教」に飛び込むか、

混乱して終わるかのどちらかなのです。

 

哲学者のような真剣で真面目な人達ですら、最終的にどうしようも

ないのです。

 

「これが本当なんだ」と自分で確信が持てる人に成って頂きたい

と思います。


修養について3

2017年09月21日 | 法理

人間的にどんなに最高だと思って事が運んだとしても、

最終的には、「真実とは何か」「本当の自分とは何か」という

ことが問題になるのです。

 

哲学者が、理論を立てて自分の理論通りの結論が出せたとしても

それで満足でしょうか。

 

ある数学者は、「フェルマーの最終定理」を証明しても満足

出来なかったという「事実」があります。