・平等愛とは、差別愛(しゃべつあい)のことです。
・本当の平等は差別(しゃべつ)の中にしかありません。
・法(道)は平等にして、因果(人)は差別(しゃべつ)です。
・差別(しゃべつ)と平等の故に私たち衆生の生活が出来ているのです。
・お経は差別(しゃべつ)と平等を説いているのです。
不尽
・平等愛とは、差別愛(しゃべつあい)のことです。
・本当の平等は差別(しゃべつ)の中にしかありません。
・法(道)は平等にして、因果(人)は差別(しゃべつ)です。
・差別(しゃべつ)と平等の故に私たち衆生の生活が出来ているのです。
・お経は差別(しゃべつ)と平等を説いているのです。
不尽
・「差(しゃ、差異)」のない立場において、「差(しゃ)、差異」を作り出さねば力を生み出すことは出来ませんし、発展することはあり得ません。
・ものの順序をわきまえなければ悪平等になります。
・平等でなくてはなりませんが、差別(しゃべつ)なき平等は悪平等です。
・形式の中ででも気持ちが和らぐのは、その個個が差別(しゃべつ)されているからです。
・差別(しゃべつ)し、区別せられることは、その各々に共通する内質(平等)を持つからです。
・共通性の無いものは、差別(しゃべつ)し区別することは出来ません。
この沢山の水に現れた月も、天上の一月に外なりません。
万水(ばんすい)の月影は天上の一月に摂せられるようなものです。
何でも同一仏性ですからお互いに平等の心を持たなければなりません。
しかし、上(かみ)としては下(しも)を憐み、下としては上を敬するという風にしなければならないと示しているのです。
無茶ではいけません。「悪平等」というようなことではいけないのです。
「仏(覚者)の法(道)は隨縁真如の時には隨縁真如として差別(しゃべつ)しなくてはいけない」のです。
悪平等ではいけなし、悪差別(あくしゃべつ)でもいけないのです。
「一月(いちげつ)普く 一切の水に現じ、一切の水月(すいげつ)一月に摂(せっ)す」というお示しがあります。
「一月」というのは「一性(いっしょう)」のことです。
先ずお互いの「唯一法性(ゆいいち ほっしょう)」を天上の月に例えて見れば、天上の月というものは普く地球の上の水に現れます。
地球上の水はどれ程あるか数えられるものではありません。
河にも谷にも海にもありますが、皆大切に現れるのです。
露が一つあれば、其の一つの露に月が現れ、露が千あれば其の千の露に月が現れるように、一法性(いちほっしょう)が一切の性に通ずるのです。
この「一月」というのは「不変真如」で一心の体で「一切の水に現じ」というのは「隨縁(ずいえん)真如」です。
「仏(覚者)」というのは「只(ただ)に成った人」です。
「只に成った人」というのは、「自分の無くなった人」です。
私たち衆生の「今」というのは、「差別(時間)」と「平等(空間)」が混じり合ったところです。
「混じり合ったところ」というのは「差別(時間)と平等(空間)」が無い世界」をいいます。
其れを、「今」と呼んでいるのです。
一切のものは一つのものが分かれた様子です。
本当は差別(しゃべつ)というものがはっきり分からないと、本当の平等は分からないのです。
人の考えで平等と差別(しゃべつ)を正すことが出来ると思うのは間違いです。
「法(道)」というのは、差別(しゃべつ)其のものをさしています。
差別(しゃべつ)には必ず法則というものがあります。
その法則に従って行じていくのが「仏(覚者)」です。
「色即是空、空即是色」とは差別(しゃべつ)も平等も決められないという事です。
ところが「決められない」と決めつけてしまうのが人の考えなのです。
どんなにしても、自我があるうちは自分の考えというものから離れられないものです。
ですから、考えは考えの中で考えに因って無為にならないといけないのです。
一つの物が、ある時は平等に成り、ある時は差別(しゃべつ)となり決まったものはありません。
みんな「縁」に因って「結果」が生じるという事です。
般若心経の中の「色即是空」の色というのは差別(しゃべつ)、空というのは平等です。
そして色の他には空は無いという事を直感的に感じて頂くために「即(すなわち)」という字が出て来ます。
「即(そく、すなわち)」とは「異ならず」という意味です。
したがって、色即是空とは「色は空に異ならず」という意味です。
私たち衆生の考えの中には、「これは差別(しゃべつ)、これは平等」というものがあったとしても物にはありません。
物は其のものそれだけで差別(しゃべつ)でも平等でもありません。