活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

仏の真言2

2022年10月31日 | 法理

今の「孝」の「孝行」という事は「死語」となってきました。

 

お父さんお母さんを大切にするのは当たり前のことです。

 

「孝」は「戒の元だ」といわれています。

 

お父さんお母さんのことを推し測って云々するということではありません。

 

「大切にする」とは「隔たりの無い」ということです。

 

「誠をもって尽くすこと」を「その物に成る」といいます。

 

ですから「親しさの極まり」というのはお父さんお母さんと「ひとつに成る」ということなのです。

 

本当にひとつに成った状態を仏教では「密」といいます。

 

ですから「密」というのは「秘密の密」ではありません。


仏の真言(しんごん)1

2022年10月29日 | 法理

「孝順心」というお言葉が在ります。

 

「孝」とか「順」とかそういう字句が出てくると、なんとなく一昔前の、封建社会を想像される方が在るかも分かりません。

 

しかし、「法(道)」を求める私達衆生は、封建とか今の新しい思想に関係なくこれらのお言葉は、「真心を用いてそのお言葉に従う」という意味にとっていただかなければなりません。

 

おシャカ様を始めとして、歴代の覚者の教えに従って、「自分を無にして修行していく」という事が、どんなにしても必要な事です。

 

洋の東西を問わず、修行をする上では、「自分の考えを一切さしはさまない事」が必要です。


仏、仏を知らず

2022年10月27日 | 法理

「何をしていても修行ならば、ことさらに修行する必要は無いではないか」という人がいます。

 

「何時何処で何をしていても、仏その物だというならば、そういう余分な事は必要はない」という人がいます。

 

何時何処で何をしていても三昧にあるならば、殊更に三昧に成る必要はないという人もいます。

 

然し「何時何処で何をしていても、修行だ」と言っても、修行している自分を自分が知る訳が有りません。

 

「仏自ら仏を知る事」は、出来ません


新帰元4

2022年10月25日 | 法理

「見性(けんしょう)する」という事は、「新帰元(元に帰る)という事です。

 

「四大(地・水・火・風)に帰る」という事です。

 

ですけれども、「四大」というものも「四大」に因って、創られているのです。

 

これを「因縁生(いんねんしょう)と言います。

 

全く何処にも、毛筋ほどの元(根)が有(在)るものではありません。

 

そういう事を、「理(理論)」として自分で納得しておいて頂かないと、分かった分からないとか、不安が生じるとか、全てそういう物は、「隔てて見る」からそういうものが出て来る訳です。

 

不安のまま(そのまま)随い去る・逆境のまま(そのまま)に随い去っていってみて下さい。

 

そうすれば何時でも「平和」です。

 

そういう事が、「自己を明らかにする」ことに因って、よく分かるという事です。


新帰元3

2022年10月23日 | 坐禅

おシャカ様も達磨様も道元禅師も、どんなにしても説明出来なかった「今の事実」。

 

これだけは、言葉にも物にも形(すがた)にも表す事が、出来なかったのです。

 

その事(今の事実)を私達衆生は今、おシャカ様のお示し或るいは達磨様、道元禅師のお示しによって、「その道」を行じていくということです。

 

それを行じ尽くせば、道(法)も無くならなければいけないし、修行(坐禅)もなくならなけば、いけないのです。

 

それが「元に帰る」という事です。

 

そういう道理(法理)という事を、よく理解しておいて、そうして信決定(しんけつじょう)が出来たならば、脇目もふらずに修行(坐禅)することです。

 

そう言う修行(坐禅)をしていただきたく思います。


新帰元2

2022年10月21日 | 法理

「元に帰る」とは、人間的な機能が無くなったという事では、在りません。

 

万物は次々と変化していますから、何時も元に帰るという事が、繰り返されているのです。

 

自分が死んだという事も、自分が生まれたという事も、自分自身では分かりません。

 

生まれた事も知らない死んだ事も知らない、ただ「縁起」が、有(在)るだけなのです。


新帰元1

2022年10月19日 | 法理

お葬式の時、戒名の上に「新帰元(しんきげん)」というお言葉が書かれています。

 

「新帰元」とは、「新しく元に帰る」という意味です。

 

万物を構成している根本である、四大(地・水・火・風)に帰るという意味です。

 

元々実体の無い物が、地(固いもの)水(湿気を含んだもの)火(熱を含んだもの)風(動くもの)という「縁」に因って、たまたま人と成り或るいは鳥と成り、様々な生物や物質に成っているだけなのです。

 

私達衆生は、元々万物と一体となっていて、「分かれながら一つの物」であり一つの物が、様々な相(姿)に成っているのにすぎないのです。


乾坤只一人(けんこんただひとり)

2022年10月17日 | 法理

時間というのは遠い昔も今も、同じで久遠(くおん)という事です。

 

時間を超えた世界の事を「無辺」といいます。

 

一番の元というのは、昔から毛筋ほども動いていないという事です。

 

もし少しでも動く物が在ったら、それは無辺と云う「人の考え」が入っているという事です。

 

別の言葉で言えば、「人の介在」があるということです。

 

ですから「見性」(けんしょう)したとか「悟り」を開いたというような収まる場所が無いという事です。

 

禅語で言えば、「乾坤只一人」という事です。

 

「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)も此れに当てはまります。


おシャカ様の苦行1

2022年10月15日 | 法理

おシャカ様が悟りを開く、いわゆる本来の自己に目覚める以前には、自我という物の存在が全く無い事を知る人は、一人もいませんでした

 

そこでおシャカ様はそういう苦しみから、解脱する為には此の身を修練する事が必要であろうと考え、当時の最高指導者の所へ行って、勉強と苦行に「六年間」費やしました。

 

その六年間の「苦行の様子」というものは、自分の以前にも以後にも、その様な厳しい苦行を課した人は、無かったであろういう程の激しい修行であったという事です。