活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

おシャカ様のお示し3

2022年07月31日 | おシャカ様

「自分で自分が生まれたという事」を、知っている人があるでしょうか。

 

おそらく無いのではないでしょうか。

 

「無いのが必然」なのです。

 

この必然として自分で生まれた事を知らない者が、知らないなりにそうして出て来て、何も知らない世界で「知らず識らず」に、はっきり生きているという「今の事実」が、あるのです。

 

そうして出て来て何も知らない世界で、はっきり生きているという「今の事実」が、あるのです。

 

そういう大きな問題に、目を注がれたお方がおシャカ様なのです。


おシャカ様のお示し2

2022年07月29日 | おシャカ様

おシャカ様は、人類史上初めて人間が、人間を救い得る事が出来る事を、見出されたのです。

 

そうして、「その救われた事実」を伝えられ、そうしてそれを実行せられた人々(歴代の覚者と言われる人々)は、必ず皆自分を自分で救われたという事が、はっきり自分で頷けたのです。

 

「おシャカ様のお示し」とは、そういう「法(道)」であるという事です。


おシャカ様のお示し1

2022年07月27日 | おシャカ様

「仏教」という物は、人間の都合で作り上げたような、教えではありません。

 

「私たち衆生の本質その物を、本当に知ってもらうという道」です。

 

「今の事実」は、私たち衆生の本質的な物を、そこにえぐり出して、おシャカ様や歴代の覚者方と言われている祖師方と、同じ世界に同じように生きている事が、「今の事実」であり、皆「立証」されるのです。

 

「今の事実」をもって居ながら、私たち衆生は何処かに、「法(道)を尋ねているのです。そういう処に間違いがあるのです。

 

それを本当に正されたのが「おシャカ様のお示し(仏教)なのです。


同時成道2

2022年07月24日 | 法理

「我と有情(うじょう)と同時に成道(じょうどう)す」。

 

おシャカ様がそう言われたからと言うと、それはおシャカ様のものだと、思ってしまいます。

 

しかし「法(道)」という物は、誰のものでもありません。

 

懸命に修行して「自分のものにした人のもの」です。

 

ですから、いたずらにおシャカ様の「八万四千の法門・月を指し示す指」等々、そう言う物に惑わされないように、自分と言うものを見失う事のないように、修行していかなければなりません。


同時成道1

2022年07月22日 | 法理

おシャカ様は、「我と有情(うじょう)と同時に成道(じょうどう)す」と、二千五百年前にはっきり宣言して、おられます。

 

「一つになった」という事です。

 

そういう事が、「今の私たち衆生の様子」です。

これからではないのです。

 

「自分と大地と何時も成道している」と、いう事です。

 

成道していないものは一つも無いと、おシャカ様は宣言されたのです。

 

今、本当に信じられるでしょうか。

誰でもその事は、簡単には信じられないと思います。

 

難しい処ですけども、そこをよく信じてもらわないといけないのです。

 

そういう事が、現在迄伝わって来ている訳です。


白紙の状態

2022年07月20日 | 法理

「今の状態」は、全て物がきれいに無くなっている状態です。

 

ですから修行(坐禅)というのは、どんどん分かったものも分からないものも放していく、悟りたいと思う事も放していく、何時でも「白紙の状態」にして修行(坐禅)をする、事に当たるという事が、必要です。

 

これから修行(坐禅)をして、苦労して使う物であったならば、どんなに苦労してもそういう事が掴めるか掴め無いか、分からない事があります。

 

しかしそういうものではありません「白紙の状態」とは、「今の自分の事」です。

 

ですから、「なるほど此の事か」という事を、了解すれば宜しいのです。

 

誰でも、そういう「結果」に至る事が、出来るという事です。

 

「今の状態(今の事実)」に、一切手を付けず物の力を借りず、「じっと今の状態(今の事実)」に成り切っているそういう人を、「有力(うりき)の大人(たいにん)」と、いいます


おシャカ様の知恵3

2022年07月17日 | おシャカ様

おおよそ人間は「人間同士」として、「自我」と云うものを認めて、日常生活を営んでいます。

 

そのような「自我を認めた世界」へ、「自我を認めない人」が出現したのです。

 

何故多くの人間にとって、諸々の事に対して苦悩が生ずるのでしょうか。

 

それは先入観念に取り付かれて、「今の事実」がはっきりしないからです。

 

そういう事を、おシャカ様ははっきりお示しになられたのです。

 

私たち衆生の日常生活としての実質な生活と言えば、「今の事実」「今の瞬間」にしか、有り得ません。

 

それは何故かと言いますと、私たち衆生には、永続的な実体と云うものが、有り得ないからです。

 

おシャカ様の知恵からすれば、今の私たち衆生の本来の姿は、何時何処で何をしていても、きちんとした日常生活が、誰にでも出来ているという事なのです。


おシャカ様の知恵2

2022年07月15日 | おシャカ様

おシャカ様は何を中心に捨てられたのか言いますと、おシャカ様のそれまでの修行と云うのは、自己中心だったのです。

 

それでは「真実とは何か」「自己とは何か」という問題は、どんなにしても、解決しなかったのです。

 

そこでこの問題が解決しなければ、どうしようもないではないかと思い、自己中心の考え方を全て手放されたのです。

 

手放してみたら、何時の間にか、本当に「自我心」と云う、ものの無い世界に入っていた事に、気が付かれたのです。

 

それに気が付いてみたら、今まで人間が「自我」を認めていた為に、余計な苦労をしていた事に、気が付いたのです。


おシャカ様の知恵1

2022年07月13日 | おシャカ様

おシャカ様の「道」を得られるまでの苦労というのは、「真実」とは何か、自己とは何かという事の、追究だったのです。

 

人は知らず識らずに修行と称して、身体や心を苦しめてしまうものです。

 

おシャカ様も、気が付かれなかった頃は、そういう「無駄な苦労」を、なされたのです。

 

それが「本当の道」のように思われておられたのです。

 

然しおシャカ様はそれが大間違いであることに気が付かれて、今迄の教えを全部捨てられたのです。


拈華微笑5

2022年07月09日 | 法理

「吾れに正法眼蔵 有り」の是の「吾れ」の字に高く眼を付ける必要が在ります。

 

「吾れ」とは誰の事でしょうか。

 

あながちにおシャカ様在世当時に預ける事ではないはずです。

 

正法眼蔵は誰も持っていない人はいないのです。

 

「涅槃妙心」とは何時も変わらない正法眼の自在の人を指したお言葉です。

 

「実相無相」とは、ものに自性無く、こん跡の認めるべきものが無い事です。

 

「山と吾れ」と同じですか。別ですか。

 

同異の入る隙間は無いのです。

 

実相は自ら実相とは言いません。

 

「相」とは相手が無いのに相手を認める事です。

 

元来その物その物に脱落して、相手の邪魔をする者が無いはずなのです。

 

そこで「自在」なのです。

 

そこが「無相」です。

 

無相を指して実相を言っているのです。