活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

本来の自己1

2024年01月30日 | 法理

「今 ものが見えた、今 何か聞こえた」ということは既に「事実」というものは過ぎ去ってしまっているのに「自分の考えの中(記憶)」で「ものが見えた、何か聞こえた」というものが残るわけです。

 

何処にも、認めようにも認められない自分を認めて、有(在)ると思っている自分が意識を起こして「自分は見た、自分は聞いた」と「妄想」を起こしているのです。

 

ですから私たち衆生の修行は「本来の自己」に目醒めなければならないということなのです。


「自我」について6

2024年01月26日 | 法理

「自我」という認識を持った人間だけが、その事によって自分でバランスを崩して自分で悩まなければならないのです。

 

喜びや悲しみを受け取るのはすべて「自我」という自分の心なのです。

 

同じことから縁」に因って、ある時は苦しくなり、又ある時は悲しくなったりするのも皆自分がそういう状態を作っているということに私たち衆生はなかなか気が付かないのです。


「自我」について5

2024年01月24日 | 法理

これは非常に矛盾したことですが「自我」が無ければ「迷い」はありません。

 

「悟り」もありません。

 

他の動物は人間ほど相対的認識が強くないので「自我に因って迷い、自我に因って悟りを開く」ということは不可能です。

 

すべてのものに「法」があるのですが、人間だけが自我を持っていることが「縁」になって「法」を「事(事実)においても、理(理論)においても実証し、自分で納得いくものとして受け取ることが出来る」のです。


「自我」について4

2024年01月20日 | 法理

修行の要点は「現実の問題を自分の問題として取り組んで生活していくこと」です。

 

物心が付く頃には相対的認識が芽生えて来ます。

 

それが「自我」の始まりです。

 

しかし、そういう「自我」が発生するのも「法の働き」なのです。

 

「自我そのもの」は実体(塊)のないものです。

 

すべてのものに「実体がない」という事はおシャカ様が初めて気づかれたのです。


「自我」について3

2024年01月18日 | 法理

「相対的認識」を強く持った人間(にんげん)だけがそのことに因って自分でバランスを崩し、自分で悩まなければならないのです。

 

喜びや悲しみを受け取るのは全て「自我という自分を認める心の働き」なのです。

 

同じことから、「縁」に因って或る時は苦しくなったり、また或る時は悲しくなったりするのも、みんな自分がそういう状態を作っているということに、私たち衆生はなかなか気が付かないのです。


「自我」について2

2024年01月16日 | その他

物心が付く頃に「相対的認識」が芽生えて来ます。

 

それが「自我」の始まりです。

 

しかし、そういう「自我」が発達するのも「法の働き」なのです。

 

「自我」そのものは、実体の無いものです。

 

「実体の無い物」ということは人類史上おシャカ様が初めて気づかれたものです。

 

これは非常に矛盾したことですが、「自我」が無ければ「迷い」はありませんし、「悟り」もありません。

 

他の動物は人間(にんげん)ほど相対的認識が強くないので「自我に因って迷い、自我に因って悟りを開く」という事は不可能です。

 

すべてのものに「法」は有(在)るのですが、人間(にんげん)だけが「法」を自分で納得のいくものとして受け取ることが出来るのです。


「自我」について1

2024年01月12日 | 法理

私たち衆生は、生まれた時からもうすでに名前が付いているように考えています。

 

しかし、その名前は生まれた後から付けられた自分の「象徴」に過ぎません。

 

私たち衆生は、生まれた時のことを知(識)らない自分と何時の間にか名前を付けられている自分を自分だと思っている自分との「二人三脚で日常生活」を送っているのです。

 

その「象徴」にすぎない名前を認める心の働きを「自我」といいます。

 

世界の多くの宗教といわれるものは、「結び目のある宗教」です。

 

例えば「神と人、仏と人、自然(しぜん)と人」との結び目です。

 

しかし本来は「結び目」があってはいけないのです。

 

わざわざ縫い目を付けて、結び合わせようとする心の働きを「自我」といっています。

 

人類で始めて「自我」を捨て去ったお方が、おシャカ様なのです。


問題の本質2

2024年01月08日 | 法理

喉が渇く時に、「水、水」と言っても決して喉の乾きはいやされません。

 

「事実(水)」と「言葉(観念)」にはズレがあるのに、私たち衆生の日常生活は全ての物事が「言葉(観念)」で解決されているかの如くに「錯覚」を起こしている為に「本来の自分」が分からずに曖昧のまま過ぎてしまっているのです。

 

「事実」を説明しても「本来の自分」には届きません。

 

何時でも何処でも何をしていても「結果(本来の自分)」に到れば「今の事実」だけなのです。

 

「今、今の連続」だけなのです。

 

そもそも、私たち衆生は「思考の次元にはいないという事実」に気が付かなければなりません。

 

私たち衆生は「今」存在しているのです。

 

「今」以外に存在することは出来ないのです。

 

しかも、私たち衆生はその「自覚」を失っているのです。


問題の本質1

2024年01月06日 | 法理

自分が生まれた事実を自覚している人は誰一人としていません。

 

広辞苑に拠れば、"「人間(にんげん)」①人の住む所、世の中、世間、じんかん” と掲載されています。

 

私たち衆生は「人間(じんかん)」に因って育てられ、知識を得て成長してきた自分をあたかも「本当の自分」であるかのように「錯覚」しています。

 

問題の本質は、「本来の自分」というものをはっきりと「自覚」する必要があるということに気が付いていただかなければならないのです。

 

そうしないといつまで経っても相対的なものの見方、考え方、六道輪廻を繰り返すことになるのです。

 

「本来の自分」に目醒めない限りは、他人のものの見方や考え方を自分のもののように取り扱っているだけなのです。


人は人のために在る

2024年01月04日 | 法理

それぞれのものが全部「法」にかなったものとして、そう在るのです。

 

それでは「人」は如何なのでしょうか。

 

ここでおシャカ様のお言葉を拝借していうならば、「人は人の為に在る」という事です。

 

私たち衆生はあらゆる恩恵をこうむって生活が出来ているのですから、自分だけのものにしてはいけない訳です。

 

自分を無にして、人さまの為に尽くすという事です。

 

皆さん、それぞれの人がそれぞれの「法」を持っているのです。

 

「一人、一宗」といっても差し支えないと思います。

 

「天上天下、唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)」です。

 

人類で始めてそういう事に気が付いた人、「法」に目醒めた人、そのお方を私は「おシャカ様」と呼んでいます。