活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

増一阿含経2

2023年10月16日 | 経典

あなた一人あるがために宇宙が有(在)るのです。

 

つまりあなた方一人一人は宇宙を統制しているのです。

 

あなた方一人一人が無ければ世界は無いということを知(識)らなければなりません。

 

それを理解出来ないものが「我(が)」なのです。

 

宇宙(彼の物)と此の物との間に距離が生ずるのは「我(が)」なのです。

 

その「我(が)」を取るという事が般若心経の目的です。

 

「我(が)」が取れれば「空」に成るのです。

 

空に成れば「自由と進歩的偉人」に成るのです。

 

般若心経はそれを説いたものです。


増一阿含経1

2023年10月14日 | 経典

増一阿含経(ぞういつあごんきょう)に曰く、「此の物なければ彼のものなく、彼のものなければ此の物なし」とあります。

 

此の物が彼の物を捉えているのです。

 

此の物が「宇宙」を捉えているのです。

 

此の物からいえば、彼の物のために世界が有(在)るのです。

 

此の物がなければ彼の物はないということになるのです。

 

此の物が有(在)る故に彼の物が有(在)るということになるのです。


修行の必要性について1

2020年09月26日 | 経典

どんな弓の名人で百発百中であったとしても、それは「修行」の賜り物なだけです。

 

しかし、「禅門」では「修行」して如何にも弓の名人と呼ばれるような人になったとしても、未だ十分ではないのです。

 

本来から言えば「修行する」という事は「不必要」な事です。

 

その辺の事情を道元禅師は「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」の中で「道本円通(どうもとえんづう)いかでか修證を仮(か)らん 宗乗自在 何(なん)ぞ功夫(くふう)を費やさん」と、はっきりお示しになって居られます。

 

もともと円通無碍(えんづうむげ)のものであり、無余無欠のものであるから「修行してその証拠を得るというのは必要ないし、功夫を用いる必要もない」と言っておられます。

 

それでは、「修行する」とは一体何を「修行する」といっているのか、ということになります。

 

人の出来ない事をやってみせるために「修行をする」のでしょうか。

決してそんなものではないと思います。

 

だったら「修行」して如何なればいいのかという事になります。


知足2

2019年08月10日 | 経典

「果満円成(かまんえんじょう)」というお示しがありますが「自己の正体」を

見極めれば、すべていちいちが果満円成なのです。


「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)」、いちいちの解脱と同じことです。


ですから、そうなれば心に余裕が出来て来て余念なく働くことが出来ます。


従って能率も高まります。


「知足」とは決して消極的なものではないのです。


知足1

2019年08月09日 | 経典

遺教経(ゆいきょうぎょう)に「足ることを知れば地に臥(が)すといえども富めり

足ることを知らざれば天堂に坐すといえども貧す」とあります。


古人も「知ることを 足れば誰しも 福の神」と言っています。


全てに満足するからです。


お金がいくらあっても足ることを知らないものを、おシャカ様は「有財餓鬼」

といわれました。


足ることを知るということは、消極的であるように思われますがそうでは

ありません。


「足ることを知る」と、心を満足させているので不平がないのです。


 

 


法位1

2019年05月14日 | 経典

おシャカ様は「是の法、法位に住して世間相常住(せけんそうじょうじゅう)

なり」とお示しになっておられます。


ですから、如何なる境遇にも甘んじて他を羨むことがあってはいけないのです。


「世間即出世間」「衆生即仏」なりです。


「死ぬ」時は「死」という「法位」に「安住(あんじゅう)」するのです。

その時に「世界は死の世界」となるのです。


遺教経(ゆいきょうぎょう)

2017年05月19日 | 経典

「遺教経(ゆいきょうぎょう)」には、非常にわかりやすく

「戒律」のことが説かれています。

 

間違いやすいことは、「戒を守ることによってのみ解脱がある」

というように、ごく短絡的に解釈されやすいということがあります。

 

広義に解釈すれば、仏教でいうおシャカ様のお説きになった

「戒」というものは、「八万四千の法門すべてが戒である」

ということです。

 

それを各論に分けたものが色々といわれる「戒律」である

ということです。


人身得ること難し

2016年08月26日 | 経典

「人身(にんしん) 得(う)ること 難(かた)し、仏法 値(お)うこと 希(ま)れなり」

というお示しが、道元禅師の正法眼蔵にあります。

 

人間(にんげん) に生まれてこないと、同じことを同じように行っても

それが何のことか分からないから救われないのです。

 

ところが人間はそういうことを知(識)ることが出来るのです。

知識があるし思う力があるからです。

 

すべてのものを観察することが出来るから、正誤の方向を

見分けることが出来るし、自分で行うことが出来るのです。

 

そして自分で 「自覚」 することが出来るのです。

そこに人間として生まれて来た由縁があります。

 

「仏法」 というものは、創り手はいないし、創られた者も

いないのです。

知らず識らずに出来たのです。

 

その知らず識らずに出来た(生じた)ということ自体が

創り手も創られ手もない 「因縁の関係、不知不識生」 において

「法」 が 「法」 として作用したのです。

 

ですから 「此の物(自分自身)は作用体」 なのです。

 

「此の物(自分自身)」 は 「法」 として 「人間(にんげん)」 といわれる

構造としての「因果関係においての産物」なのです。