活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

直指人心見性成仏4

2019年11月29日 | 語録

「楞伽経(りょうがきょう)」に「四十九年一字不説」とあります。

 

おシャカ様の四十九年の説法は「菩提心を発動させること」「一発心(いっぽっしん)」

を促すに過ぎなかったのです。

 

それは自分で見てとるより外にありません。

 

おシャカ様在世の時は「九十六の外道」があって心外(しんげ)に「法」を

求めて大苦悩大顚倒(だいてんどう)していたのです。

 

「迷悟」に陥っていたのです。

 

それを転じて「この道」に向けしめんが為に、縦説横説したのです。


直指人心見性成仏3

2019年11月28日 | 語録

「外道」は心の外に「法」を求めたから「我見」があるのです。

 

「この仏語(直指人心見性成仏)を「実」にするのが「坐禅の特徴」です。

 

元来「心そのもの」は説くに説かれぬものです。

 

しかし、おシャカ様はこれを説いてその内容を渇仰するように上手に説いた

のです。


直指人心見性成仏2

2019年11月27日 | 語録

その「実」とはどんなものかと言えば、時間、空間、「三世十方(さんぜじっぽう)」

「過去、現在、未来と東西南北、上下四維(天と地、西北、西南、東南、東北)」が

自在になります。

 

これを禅語では「宝剣手に在り、殺活(せっかつ)自在」といいます。

 

実に楽しく心地よいものではありませんか。

自己の持っている「心」を自己が知らないとは、実に浅ましいことだと思います。

 

そのことをおシャカ様は「心外(しんげ)に別法無し」と、道元禅師は

「萬法唯心(まんぽうゆいしん)」とはっきりとお示しになっております。


直指人心見性成仏1

2019年11月26日 | 語録

達磨大師は「直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)」と

言われました。

 

「性」とは私たち衆生の「本具(本来具有の略)の心」をいいます。

「この心」は、”コロコロ”で自在を意味するのです。

 

眼を開けば天地は眼中に在り、思いをめぐらせば、古今は私たち衆生の「方寸(心)」

にあります。

 

そのことを「觸處元来不二(そくしょがんらいふに)といいます。

 

「辺量」のないものが「心」です。

それで方寸といい、眼というのです。

 

「無限」に即ち「絶対」です。

 

「この性が我が手に入れば(見性すれば)」これこそ「成仏」と見るべきもので

世にこれを「見性悟道」と言われています。

 


見を息(や)むべし4

2019年08月15日 | 語録

本当に「今の事実」を自分のものにしなければ、例えば、「只というものの

中で生活」していると、寂しさが出たり、「こんなことしていてどうなる

のだろうか」ということを思ったり、様々な思惑(おもわく)が出て来る

ものです。


それは、先に「只という言葉」を知(識)って、その言葉にしたがっていこう

とするからそういう「空虚」なものが出て来るわけです。


どうか、ひたすらに「今の事実」に徹して頂きたいと思います。




見を息(や)むべし3

2019年08月14日 | 語録

「真を求ることを用いざれ 唯須(ただ すべか)らく 見(けん)を息(や)む

べし」という、お言葉があります。


「何が本当のことだろうか、何が真実のことだろうか」というような

「真を求ること」を用いてはいけないのです。


そういう「ものの見方考え方」ということから離れなければなりません。


ですから「今の事実に徹する」、ただそれだけです。


見を息(や)むべし2

2019年08月13日 | 語録

「何故この時期にこういうことをしなければならないのか」ということを

考えたら「結論」は出ません。


すべてのことがそうです。


「何故」ということが出たら、これはもう混乱するだけです。


ですから「道」に向かって自分が進んでいる間は「出来るだけそういう

見(けん)を用いない」ということです。




定期なし2

2019年07月13日 | 語録

ですから物事のよく分かった人というのは、仲良くはしますが徒党を組み

ません。


きちっと自分の考えをもって生活しています。


そうでないと「悪平等(あくびょうどう)」になります。


「和して同ぜず 同じで和さず」ということが必要なことです。


「物事が定まっていないのが世の常」ですから、それを一つのものにして

しまおうとすると危険が生じて来るということになるわけです。


定期なし1

2019年07月12日 | 語録

「定期(じょうき)」というのは定まったことです。

「定期なし」とは、私たち衆生の万般の出来事はどこでどういうことに

出会うか分からないということです。


「これはこれだ」と定まったものは一つもないということです。

「平等と差別(しゃべつ)」と分かれるものではありません。


平等の中に差別があり、差別の中に平等がなければならないのです。


たとえば、会社には労働者と資本家がいます。

資本家だけでは組織は成り立ちません。

労働者だけでも会社は成り立ちません。


どんな平等な世の中といっても資本家と労働者は一緒ということはあり得ない

ことです。


「一方では成り立たない」ということです。



道は知にも属せず不知にも属せず2

2019年01月07日 | 語録

こちらに「聞くという働き」があるから、「人」がいなくても聞こえるのです。

 

また、「見ようと思う時」は「見るという働き」があるから「人」がいなくても

宇宙総がかりで、ものが見えるのです。


考えたから見える、思ったからあるのではありません。


これはまったく「知識」とかあるいはそうではないとかに関係なく「道」という

ものはそういうものです。


このことを「道は知にも属せず不知にも属せず」といいます。