活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

逸話1

2016年05月31日 | 

ある金持ちの老人が、

“金がいくらあっても死んでは何の役にも立たぬ、せめて百年行きたい。

御祈祷を願います。”

と、良寛和尚に言いました。


良寛和尚曰く、

“それはいと易きことじゃ”

と。


老人は願いが叶うと聞いて悦び勇んで

“いかに心得たらよいですか”

と問いました。


良寛和尚曰く、

“只今を百年と思わっしゃい、但し、千年とて万年とても思うには

差し支えは無い、御注文通りである” 

と。


時間も空間も今より外になんにもないのです。

今ならぬ人はいないのです。 今ならぬ国もないのです。

私たち衆生は確かに、「不老」 です。


老人は忽ち「大悟」してお仲間入りが出来たということです。


自照霊然たり

2016年05月30日 | 法理

「此の物」 は聞けば聞いたきり、見れば見たきり、思えば思うだけなのです。

別にどうということはありません。邪魔になるものはありません。

 

何が何処に止まっているのでしょうか。

何も後に残るものはないのです。

 

堂々たる 「法身(ほっしん)」 の様子ではないでしょうか。

「此の物」 は清水のように透き通っていて表も裏も、内も外もないのです。

すっかり何にも無い処から、いつでも何でも出て来るのです。


何にもない処から出て来ながら、何にも残っていないのです。

そして、然も自由自在、縦横無尽です。


その活動を 「自照霊然(じしょう れいねん) たり」 というのです。


「霊」 という特殊なものがあるのではないのです。

そういう微妙な活動をするものを讃嘆して 「霊」 という名目を付けただけです。


時・処・位

2016年05月29日 | 仏教

物をつかまえて人間(にんげん)は良いとか悪いとか、そういうことを考えます。

実はその事が間違いなのです。

 

世の中の全てのものは、人間(にんげん)の為にあるのではありません。

人間も世の中の一粒です。

その者が勝手な事を考えて、そして、良いの悪いのとそんな事を始めるから

無謀なのです。


「参同契」(さんどうかい)にも、「万物(ばんもつ)自ずから功あり、当に用と処とを言うべし」

とあるように、全てのものは良いとも悪いとも名付けられない存在です。


有る物が本当に只有るという世界です。

用い方によってどれも良いといわれ、どれも悪いといわれるだけのものです。


一つの目標が立つと、その目標に対して物を見る時分に良い悪いといわれるだけのものです。

ですから、「自・処・位」(じしょい)、つまり、

「時間と場所と位置」 が異うと、ガラッと違って来るのです。



おシャカ様の尊さ2

2016年05月28日 | 仏教

始めから、そういうふうにすっかり解脱をした境界に誰れでもがいるのですが、

「そんなことが」 という気がするものです。

そんなことが 「道」 なのかと思うのです。


それだから困るのです。

「道」 というものを、遠い処に求めて理想を描くからです。


人間(にんげん)が理想を描いていると、いかにも立派そうですけど

それが 「迷い」 の根なのです。  それを知らないのです。


ほとんどの人が、如何にすべきか、どこが本当なのか、ちっとも分からずに

騒動しているのです。


「仏教」 というものは、そういうものの中心をきちっと今教えているのです。

おシャカ様はそういう尊い道を教えられたのです。



おシャカ様の尊さ1

2016年05月27日 | 仏教

「仏道の教える道」 は、私たち衆生がこれから立派な者に成るのではないのです。

これから解脱するのではなくて、最初から解脱していたということなのです。

 

すでに立派な者であるものを私たち衆生は忘れているのです。

ですから、そういうことに本当に気付いて見るということなのです。

そういう事が大切なのです。

 

それは何故かというと、おシャカ様が大悟をせられた時に

「一切の衆生は如来の智と徳と相とを全部具えて居るではないか」

と、おシャカ様御自身がそう宣言しておられるからです。

 

仏道でいう救われるということは、外の人が救うのではありません。

自分自身が自分自身を本当に救う道なのです。

 

それを教えられたのが 「仏祖」 です。

ですから、おシャカ様は尊いのです。


おシャカ様の智慧5

2016年05月26日 | おシャカ様

「此の物(自分自身)」 は 「空」 のようなもので、何もない処と同じです。

「此の物(自分自身)」 は全く 「自我」 のないものです。

「何も知(識)らない」 のです。


何も知(識)らないのに、話せば聞こえて、前のことが無くなって

いくらでも無限に展開します。

「此の物(自分自身)」 は限りない活動者なのです。


そういう 「自分の本質」 というものが 「今の事実(様子)」 なのです。しかも、

「円(まどか)なること太虚(たいきょ)に同じ、欠くることなく余ることなし」

とのお示しがあります。


如何なる大きな景色でも一飲みにし、如何なる針のような小さな世界にでも

容易と生活(活動)が出来るのです。

それが、私たち衆生の 「自己の様子」 なのです。


どうしてそうならなくてはならないのでしょうか。


しかも小さいものにも、大きなものにも一つに成って少しもずれが無いということです。

何時も 「実質的」 にきちんとした生活(活動)が誰にでも出来ているのです。


それが 「今の私たち衆生の本来の姿」です。

これを得るには 「坐禅」 に依る外はありません。

これが、「おシャカ様の智慧」 です。



おシャカ様の智慧4

2016年05月25日 | おシャカ様

「今の瞬間」を「今の瞬間」にいて、その時に、「次の瞬間」に

この自己の上に何が起こってくるかを予期(予測)出来るでしょうか。

 

考え方としては、これが済んだらこうしたりああしたいという、そういう予測は

あるのですが、それは「観念としての予測」です。

 

「事実(今の事実、現実)はそのような予測をつけていつも思いもよらないこと

(今、外で外の車の音が聞こえます)が起きると  「ころっと」 そうなってしまいます。


「此の物(自分自身)」は「 自我無き存在者 」なのです。

そういう素晴らしい自由な「自分の真相」を本当に徹見して頂きたいと思います。


おシャカ様の智慧3

2016年05月24日 | おシャカ様

おおよそ人間(にんげん)は、「人間同士」として「自我」というものを

認めています。

そのような「自我を認めた世界」へ「自我を認めない人」が出現して

そして、「皆の本質を皆知(識)られた」のです。

 

私と同じ生活を同じように皆生活していながら、苦労をするということは

どういうことなのか、それは「“私が”という先入観念に取り付かれて

「事実(今の事実、現実)」がはっきりしないから苦労しているのですよ」と、

そういう事をおシャカ様ははっきりとお示しになったのです。


「此の物(身体)」に永続的な実体はありません。

私たち衆生の生活としての実質的な生活といえば「今の事実、今の瞬間」

にしかありません。


おシャカ様の智慧2

2016年05月23日 | おシャカ様

おシャカ様は何を中心に捨てられたのでしょうか。

 

おシャカ様は、「私が、という観念」 を中心にして凡てを見ること、それだけが今までの

修行だったのです。

 

しかし、それではどんなにしても 「解決」 がつかなかったのです。

 

「この問題(自己とは何か、真実とは何か)」 の解決がつかなければ

どうしようもないではないかと思い、そこで、「私が、という観念的な取扱い」 を

凡て手放されたのです。


手放してみたら何時の間にか本当に 「自我心」 というものの無い世界に

入っていたことに気が付かれたのです。


それに気付いてみたら、今まで人間(にんげん)が 「自我」 を

認めていた為に余計な苦労をしていたことに気が付かれたのです。


おシャカ様の智慧1

2016年05月22日 | おシャカ様

おシャカ様というお方は、自分が本当に苦労を重ねて、終に

「本当の道」 を得られたお方です。

 

おシャカ様の苦労というのは、「自己とは何か、真実とは何か」

ということを追究せられ、その追究と苦心の結果、終に 「其の道」 を

徹見されたのです。


それは単に身体や心を苦しめることではなく、それを離れることの出来にくい

ことに徹見する苦心であったのです。


しかし、そうではないと知(識)っていても、人は、知らず識らずにそういうことを

やっているものです。


おシャカ様も気が付かれなかった頃は、そういう無駄な苦労をされたのです。

それが、「本当の道」 のように思っていたのです。


このようにしていけば将来何か良縁し、結果があると思い込んでいたのです。

それが大間違いであることを知(識)られて、今までの教えを全部捨てられたのです。