「有」というのは、差別(しゃべつ)の様子です。
「空」というのは平等ということです。
「二見相対」では差別(しゃべつ)と平等がいつも対立しているので
「融和」が出来ません。
融和が出来ないから、溶け合うことは出来ません。
差別(さべつ)とか平等ということだけで議論してしまっている
様子もよく見受けられるところです。
そういうものを「法執(ほっしゅう)」といっています。
「法」に執することから脱するためには、一度この差別(さべつ)を
作っている自分自身という身を捨ててしまわないと、本当の安楽には
なりません。
参究していって「分かる」「分からない」という、これは「差別(しゃべつ)」
なのです。
「差別(しゃべつ)」がそのまま「空(平等)」なのです。
何にもないそれだけのものだということに、気が付かないといけない
ということです。