活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

苦楽とは1

2018年05月31日 | 道のこと

修行の結果、一応の其の人なりの苦しみから離れることが出来たとしても、

これで「菩提を成就した」ということにはなりません。

 

苦しみから離れてすっかり安心しました、というような状態になる人は

非常に多いと思います。

 

しかし、数日数年過ぎると、また同じような苦しみが出て来るものです。

これは本当に「自分というものが無くなっていない」からなのです。

 

「楽」になろうと思って出発した修行ですから、「苦」が無くなると、

もうそれで終わって今度はその「楽」が「苦の種」になります。

 

このことを説明して下さる指導者がなかなかいないために、「楽になった、

もうこれで私の修行は終わったのだ」というような誤った考えを起こすのです。


耐える2

2018年05月30日 | 道のこと

また別の言葉で言えば「一切其のままにしておく」ということです。


そんなものがあってはいけないのだということで、自ら手を加えて、それを

除こう除こうとする手続きを用いがちですが、そうではありません。


「今」出て来たものを本当に「相手にせず邪魔にせず、其のままにしておく」

ということです。


しかし、それが一番「耐えにくいこと」なのです。


その耐えにくいことを耐えれば力ある偉大な人に成れるのも事実なのです。



耐える1

2018年05月29日 | 道のこと

修行とは、「自分を忘れることだ」とよくいわれますが、実際に自分の問題になって来ると

それがなかなか出来にくいものです。


先般も「忍」ということがいかに大変なことであるかということを述べました。


この「忍」を「耐える」という言葉に置き換えて説明すれと、「耐える」ということを

「静かに坐ること」の要領に以ってくれば、「今」出て来た雑念、妄念、分別、

我他彼此(がたひし)をそのままにしておくということです。




忍について3

2018年05月28日 | 道のこと

其のままに任せて、其のままに成っていることに一所懸命に成って下さい。


ところが自分が無くなれば無くなる程、自分の様子を眺めるようになるものです。


そういう事さえも忘れて「三昧」に成っていただきさえすれば必ず満足し、

大安心(だいあんじん)が得られるということです。


私たち衆生は「前後(過去と未来)」のことしか分かりません。


しかし、「今」に一所懸命に成れば過去のことも未来のことも「全部今に帰納される」

ことを知(識)って頂きたいと思います。


忍について2

2018年05月27日 | 道のこと

苦しい時は楽を求めてはいけないのです。

苦に成り切った時が楽なのです。


別の言葉で言えば、「今の事実に一切手を付けない(加えない)で其の事に

一所懸命になっていくこと」を「忍」といいます。


そういう「忍」であれば大いに「我慢」すべきなのです。


それを「こういう我慢があってはいけない」ということで、また最初から

遣り直してはいけないのです。


ただし、そういう言葉(忍)を知(識)っていると、「このままにしておけば善いんだ」

という考えを起こしてしまい、また「其のままにしておく人」がいます。


忍について1

2018年05月26日 | 道のこと

一般でいう「忍(にん)」というのは、対象があって、その対象に対して

踏ん張って我慢する場合に使いますが、殊「仏道(修行)」に於いては

「そのままに成る」ということです。


おシャカ様のお言葉に「忍の徳たること持戒苦行も及ぶこと能はざる所なり、

能く忍を行ずる者は、乃ち名付けて有力(うりき)の大人(だいにん)と

なすべし」とのお示しがあります。


「忍」ということが、いかに大変なことであるかということを物語っています。


極単(ごくたん)3

2018年05月24日 | 

とかく落しかねるものです。

古人はここを「尊貴堕(そんきだ)」という語を用いています。


「尊貴」は尊いこと、「堕」は自由無礙(じゆうむげ)の意味です。


尊貴にとどまることなく、尊貴を越えることです。

そのものそれが「極単(ごくたん)」です。


極めて「単一(たんいつ)」、「純一(じゅんいつ)」なれば言葉の入る

隙間はありません。


そのことは私は以前から「その物それに成り切って成り切るものもない、

ここを見るままに聞くままに」といっていたのです。


極単(ごくたん)2

2018年05月23日 | 

百合の皮がまだむけていないのに、皮が無いと思っている人が多いものです。


「悟り」というものがあれば、それだけ「単」ではありません。

いわゆる「悟りという迷い」です。


所詮何物も脱し、何事も落としてこそ、「洒洒落落(しゃしゃらくらく)」の

大自在底が初めて得られるのです。


極単(ごくたん)1

2018年05月22日 | 

王陽明曰く「山中の賊を敗るは易く、心中の賊を破るは難し」と。


たとえば表面は波風がないようでも、年中心中は穏やかではないようなもの、

思えば世の中のことです。


「禅」の字は「単、示」の二字から成立しています。

「単」は赤裸々ということです。


「赤裸々」とは「赤裸を裸にする」と理解してもらいたいところです。

つまり、裸をもう一つ裸にしてこそ「真の単」なのです。


それを「極単(ごくたん)」といいます。