今仮りに「人の世(迷いの世界)」に「正しいもの、真実のものが存在する
野であろうか」という考えを起こしたとします。
そうすると「何か正しいもの、真実のものが存在するのではないだろうか」
と、その「ものの見方、考え方」を対象として、又「ものの見方、考え方
を起こす」ということを知(識)って置いて頂きたいと思います。
「意識(心意識、認識)」とは働きです。
人の中に有(在)るものではありません。
「人」というものは、自分が認めた存在(所産)なのです。
今仮りに「人の世(迷いの世界)」に「正しいもの、真実のものが存在する
野であろうか」という考えを起こしたとします。
そうすると「何か正しいもの、真実のものが存在するのではないだろうか」
と、その「ものの見方、考え方」を対象として、又「ものの見方、考え方
を起こす」ということを知(識)って置いて頂きたいと思います。
「意識(心意識、認識)」とは働きです。
人の中に有(在)るものではありません。
「人」というものは、自分が認めた存在(所産)なのです。
「真」というのは、「今の自分の状態」です。
仮にそれがどんな状態であっても「真実」なのです。
ただ自分がそれを「真実」だと気が付かない為に他に求めてしまうのです。
「今の状態」の他に真実というものは在るはずが在りません。
そういう「見(けん)」というものの見方、考え方さえ取り除きさえすれば
そこには「真」だけしか在りません。
ですから、ものの見方考え方さえ止めさえすれば「真」を求めようと思わなく
ても自ずから「真」が現前している訳です。
「人の世」とは「迷いの世界」ということです。
「分かる分からない、信じる信じられない、正しい正しくない、合う合わない
善い悪い、好き嫌い、許す許せない」等々。
「有りと有らゆる存在は、それはそれとして、存在している」だけで在り
続けているのです。
「存在その物」は何物でもありません。
自分は何様でも何物でもありません。
自分が有りと有らゆる物との「結び目」を無くするように努めていくことが
修行の要点です。
私たち衆生は、自分が認めたものに因って、様々な考えを起こし、その
考えを自分自身では如何しても処理することは出来ないのです。
別の言葉で言えば、自分自身で苦しみや悩みの風を起こしておきながら
他からの「縁」に因って自分が苦しめられているのだという考えから
離れることが出来ないのです。
幸い仏教では「無常」ということを示しております。
どんなに日本の文化が変化し、仮に無くなったとしても「法(道)其の物」は
なくなりません。
何故ならば「無くなるということ自体が法(道)其の物だから」です。
ですから「無くなり様がない」わけです。
それがおシャカ様の教え、目醒めた人の教えなのです。
特に私たち宗教に携わるものは、洋の東西を問わず、如何しても「此の法(道)」を
広めていかなければならないのです。
「目醒める」とは、邪魔にしていたものが一切消えて無くなることです。
人は誰でも目醒める力は持っていますが、自分がただそれを知(識)らない
だけなのです。
ですから、気が付けばそれで終わりで、新しいものを掴む必要もないし
今まで邪魔にしていたものを外へ投げ出す必要もありません。
では、目醒めた人と未だ目醒めていない人ではどこが違って来るのか。
制約というのは他から与えられたものですが、それを受け取ったその人(自分)
が差別(さべつ)や平等の意識を起こしてしまうだけで、物には差別(さべつ)
とか平等ということはありません。
仏教では此の世界を「娑婆世界」といっています。
「娑婆世界」というのは絶対に自分の思う通りにならない世界です。
その娑婆世界という器の中で私たち衆生は悟りだ、迷いだ、煩悩だ、不安だと
様々の上で生活させてもらっている訳です。
一人一人の顔が違うように、それぞれ違った考えや思想を持っているため、
「差別(さべつ)」や「平等」という制約された中で生活をせざるを得ません。
目醒めた人でも同じです。
目醒めた人に成ればなんでもできるし、何をしても許されるということでは
ありません。
私たち衆生には確かに「仏性」が有(在)ります。
「有(在)る」というと、此の身体の何処かに隠されているかの如くに考えがち
ですが、しかし、そうではありません。
「仏性」というのは私たちの全てです。
隠されているものではありません。
「露堂堂(ろどうどう)」という言葉が有(在)りますが、何時でも「仏性」の
丸出しなのです。
しかし、いくら「仏性」が有(在)るといってもそのままでは役に立ちません。
修行して「成る程これが仏性だった」ということを自分ではっきり「実証」
しなければなりません。
妄想とか雑念ということは「事実」として確かに有(在)ります。
後に付けた名前(符号)だといっても自分には確かに有(在)るものです。
その確かに有(在)るものは「事実」ですけれども「それだけ」なのです。
その妄想や雑念の他に「事実」は有(在)りようは無いのです。
その妄想や雑念が実は「仏性そのものの働き」なのです。
仏性(八つの作用、働き)1 2019/02/04
仏性(八つの作用、働き)2 2019/02/05
唯識三性観(ゆいしき さんしょうかん)」とは「遍計所執性(へんげしょ
しゅうしょう)としての蛇、「円成実性(えんじょう じっしょう)としての
麻とたとえると、月夜に路に蛇がいた、蛇と思ったから蛇に見えたが、
よく見ると縄であったということです。
麻でこしらえた縄を迷って蛇と思ったから蛇に見えたのです。
これを「虚妄幻化(こもう げんけ)」といいます。
三、「法門無量誓願学(ほうもんむりょう せいがんがく)」
おシャカ様のお説きになった法門を勉強することを誓いますということです。
四、「仏道無上誓願成(ぶつどうむじょう せいがんじょう)」
おシャカ様の道に目醒めることを誓いますという意味です。