人間だけが「思い想念」に因って、時間の流れを変化させることが出来るのです。
「音信不通」になるという事は、あなたと会えなくなった方との、「思い」が違って来たという事なのです。
「人の想念が、その人の人生を描き、集団の想念が歴史を創る」のです。
人間だけが「思い想念」に因って、時間の流れを変化させることが出来るのです。
「音信不通」になるという事は、あなたと会えなくなった方との、「思い」が違って来たという事なのです。
「人の想念が、その人の人生を描き、集団の想念が歴史を創る」のです。
太陽信仰以前に、世界中で信仰されていたのは、北辰妙見信仰です。
即ち男性性の信仰であったのです。
北辰妙見信仰以前の信仰は、「月」を信仰するもので、女性性の時代の信仰で、あったのです。
私たち衆生が存在している現実世界は、四次元世界なのです。
五次元世界とは、四次元世界に「集団の時間軸」を、加えたものです。
三次元世界は、「立体の世界」を云います「同時多次元宇宙」を、パラレルワールドと言います。
因果の実相「実体其の物」が、今の私自身です。
即ち今のままで、迷う必要も悟る必要もなかったのです。
「無」とは何も存在しないという物ではなく、存在してはいるが、知覚や認識が出来ない物であり、見えない中にあらゆる物が、含まれているという事です。
宗教は源「みなもと」の教えです。
宗教「源の教え」とは、「実相無相・不生不滅・無始無終」です。
即ち「不知不識」の存在です。
不知不識の存在は、自性(じしょう)は無自性なのです。
即ち私たち衆生は、無自性以外の何物でもないのです。
宗教自体の考え方は、例えば「象の鼻」を触ったら、想像を膨らませて「これが象だ」という発想をします。
つまり、部分的に想像を膨らませて、人に限定した生き方とか、教えという物を説く仏教を取り入れたのです。
聖徳太子は、「人を中心に自然」というものではなく、「仏教」を取り入れたのです。
神道では人間の実生活などの場面で、懸け離れている部分が出てくるので、人の心が薄れてしまいました。
後に「神仏習合・本地垂迹(ほんちすいじゃく)」が出現するのです。
仏教では、壮大な「死性(ししょう)観」をもたらしましたが、神道では「黄泉(よみ)の国」と云う概念しか無く、其れは「死者の赴く世界」だと言う、すごく狭い世界しかなかったのです。
神道の場合は、仏教のように教えが無く、「古事記・日本書紀」のような所謂「史書」と言う形で、伝わって来ているので、神道をどうやって実生活に活用するのかと言った時に、神道に於ける「教え」と言うものは、弱かったのです。
これまでの社会構造は、「ピラミッド型の縦社会」だったのです。
ですから、トップに立っている者たちの、意思が大きく反映され、それを「教育」と言う方法で、「集団の想念」へと変えていく、「上意下達のシステム」に因って、成り立ってきたのが、「マスコミ報道姿勢」なのです。
事実を伝えウソを付かなければ、何も本当の事を伝える必要はありません。
人々は行き先不明の切符を、手にしながらその都度乗る列車を、乗り換えて未来に向かって進んで行くのです。
成功するには、「実力と運、それにタイミング」が、必要となるのです。
仏教では、「人間の世の中で、人がどういうふうに生きていったら良いのだろうかと」という「人間に特化した教え」なのです。
人を中心に、自然というものではなくて、人に限定した生き方とか教えというものを、説いているのです。
仏教の教えと神道の教えでは、先ず中心とするものが違うので、物事を見る視点が変わって来ます。
神道では、人間も基本的には自然の一部であるとの、考え方なのです。
時代は、二十一世紀に入って居りますが、人間社会を見る時、「国家間・民俗間の対立・人間問題・格差社会」等々「法治国家」で有(在)りながら、混沌として紛争が、絶えません。
「宗教」も又、「本質」から遠く離れ、現実を生きる人々に「無力感」が漂っていると思います。
今こそ人々が無明「自我・妄想(もうぞう)」の実態や煩悩・業苦の根源である、三毒「貪瞋痴(とんじんち)」や万物(ばんもつ)の本質を、見定めて見る必要が有(在)るのではないでしょうか。
禅家(ぜんけ)では、これを「自己の正体を見極める」、即ち見性(けんしょう)と言っています。
「水自体」は、変化している事は知(識)る由も有り得ません。
水の性質は絶対に変わりません。
しかし「そのままで変化がある」という事です。
私たち衆生も「縁」に応じて様々な変化を繰り返しながら、「水が水に成る」ように、精進していって頂きたいと思います。
必ず「氷」は、溶ける物です。
それには「座る」事です。
半畳の場所が有(在)れば座れます。
相手は要りません。
必ず座れます。
そうすると、「氷」が溶けて「水に成る時節」が有(在)ります。
それを「悟り」というのです。