活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

信仰とは 2

2015年10月31日 | 仏教
「法」の教えは、おシャカ様や歴代の覚者によって、

「このようにして道を歩けば、間違いなく有限相対の思惑が一向に邪魔されなくなって、問題と思っていたことが既に決定的な解決の中にあった事に気がつくことができる」

と、証明されています。


ですから、おシャカ様や歴代の覚者の教えに素直に随って道を行じていけばよいのです。

迷惑や葛藤や自我そのものも法であり、禅であり、実相無相であることを「信決定 (しんけつじょう)」して、日々の生活を営んでいけばよいのです。


そして、おシャカ様や歴代の覚者の如くに「自ら 自證 (実証)」することが肝要です。

人の思惑中心の誤った教えの横行する中で、このように人の思惑を離れる道を信じて行じることが、真の信仰というべきです。

信仰とは 1

2015年10月30日 | 仏教
おシャカ様の教えで言うところの信仰とは、本当に信じるという事です。

「自分自身を信じなさい」と言われても、なかなか自分自身に信じられないものです。

そこで、神仏の力を借りて「自分の信仰が堅固なものになりますように」という、祈りの意味を込めて「礼拝 (仏教では “らいはい” といいます)供養」が行われる訳です。


阿弥陀仏を礼拝 (らいはい) する時は、「南無阿弥陀仏」とお称えします。

この意味は、「南無阿弥陀仏」とお称えしている人が、すでに「阿弥陀仏 そのものである」事を、自らが自覚するために「南無阿弥陀仏」とお称えしているのです。


信仰の純粋な状態というのは、【疑い】というものと【同時】に【信】もなくならなければいけないのです。

何故ならば、信・疑というのは、あくまで「人の考えの中のもの」だからです。

そういう信・疑のなくなった状態を「道、法、今」と、言っているのです。




自己をならう、自己をわすれる 2

2015年10月29日 | 道元禅師
塩は辛い、砂糖は甘い、火は熱い、水は冷たい、.......。

これらは皆万国共通の「法 (法則)」で、この「法 (法則)」を離れてものは存在しません。

例えば、塩を舌の上に乗せても、舌は辛い甘いと分別するものではありません。

「辛い」と思う自分の計らいがあるだけです。


このように「四苦八苦」を含めた人間 (にんげん) の【あらゆる感情 】は、【自分の考えの中】で生じたもので、たとえどんな立派な教えであっても、他からの教えによって迷いをなくすことは出来ません。

それが道元禅師の「正法眼蔵」の「仏道をならふというは、自己をならうなり」というお示しなのです。


【六根 (眼、耳、鼻、舌、心、意) の働きと縁】によって、今の存在があるのです。

つまり、見る、思う、聞くというのは生きていることの説明に過ぎません。

それを自分だと思っているのです。

その【自分だと思っている自分】を忘れてしまえば【自分はありません】 。


自分がなければ、他もありません。

別の言い方をすれば、宇宙の一切のものは自分だということです。


一切が自分であれば、【相手を認めることが出来ない】から、好き嫌い、正不正などの揀擇 (けんじゃく) や葛藤も起こりようがないのです。

それが、「自己をならふというは、自己をわするるなり」です。

ここから本当の修行 (今の事実に徹する) が始まるのです。

決着

2015年10月28日 | 法理
おシャカ様や歴代の祖師といわれる方々が、いろんなことをおっしゃっています。

しかし、それは【自分のことではありません】。

【そこに至った人】の言葉です。



【そこに至った人】 の言うことだけを聞いて「ああ、そういうものか」と、思っただけで自分の問題になってこないと、【今の状態】というものが、明日も明後日も、五年先も十年先も、いつまでたっても【今の状態】なのです。

ですから、【今】決着を着けないといけないということです。



【実】を求めないといけないのです。

本当にやらないといけないということです。

「空」 3 “分を守る”

2015年10月27日 | 仏教
自分の置かれた立場をよく守り、差別 (しゃべつ) に徹する事を、自分の分を守ると言います。

「法」で言えば、「法位」ということです。

本来、相手というのは自分の分かれたものですから、分かれたままに、差別 (しゃべつ) に徹する事を【平等】というのです。


因縁生ということを、よく言っています。

すべてのものが集まって、一つのものを形作っているわけです。


ですから、男性もあり 女性もあり、樹木もあり 石もあり、様々な現象が世界にはあるわけですが、それはみんな自分の分かれたものだということです。

【元をただせば本当に一つのもの】です。


「法位」に住して、他の領分を侵さないということが仏教で言うところの【空】なのです。

【空】というのは、ある時にものが欠落して何もなくなったということではありません。


別の言葉で言えば、それぞれのものが、それぞれの立場に、きちんと他の領分を侵さないようにあるということを【空】と言っているのです。

蓮の花 2

2015年10月26日 | 仏教
「修証不二 (しゅしょう ふに)」とは、【修行 (今の事実に徹する)】の中に、はっきりとした【証】があり、修行に対する結果というものが、修行の中にあるということなのです。

ですから、

「葛藤や妄想、分別というものが、静かにおさまったその結果、悟りがあるというものではない」

という、まずその事をよく自分で信じ、よく理解し、行をするということです。


ものには【順序】というものがあります。

わずかの間だけですけれども、「信・解 ・行 ・証・入 (しん げ ぎょう しょう にゅう」という、そういう、順序があるのです。

蓮の花 1

2015年10月25日 | 仏教
お寺では蓮の花をよく飾ります。

蓮の花というものは、花が咲くと同時に結実すると言われています。

これは「因果一如」ということを表しているのです。


私達衆生の修行もその通りです。

原因だけを作ればいいのです。

そうすれば、蓮の花と同じように「結果 (悟り) は待たずともそこにある (修証不二)」 ということです。


原因を作らずに結果 (悟り) ばかり求めても、結果は到来するはずがありません。

自己をならう 自己をわすれる 1

2015年10月24日 | 道元禅師
道元禅師は、

「仏道をならうというは、自己をならう也、自己をならうというは、自己をわするる也」

と、こう言われました。


「仏道をならうというは自己をならう也」の「自己」とは、おシャカ様のお言葉にもありますように「実相は無相」です。

自分というものは、本来【姿、形がないもの】なのです。

認めることが出来ないものなのです。

本来、無我のものであるということです。


「仏道をならう」とは、今こうしてものが見えたり、聞こえたり、考えることが出来たりすることを、私達衆生は「自分だ」と、こう思っています。

しかし、そうではないのです。

それは「本当の自分」ではないのです。


ですから、どうしても今の生活をしている自分というものを一度徹底的に忘れなければいけないのです。


唯務 (ただ つとむ) 1

2015年10月23日 | 坐禅
ごく普通の考えですと、

「妄想、分別、雑念、求心 (ぐしん)、葛藤、落ち着かないというものが、坐ることによって、だんだん落ち着いてきて、葛藤がなくなり、雑念、妄想、分別が出なくなる」

と、考え勝ちです。


しかし、そういう状態を描いて、考えて、望んで、坐っていてもそれは駄目なのです。

何故かというと、葛藤そのもの、妄想分別そのもの、落ち着かない気持ちそのものが、すでに【脱落】しているからです。


いわゆる普通の考えでいうと「そんな状態では坐禅になっていないじゃないか」と思われるかもしれません。

唯務 (ただ つとめる) 。

どんな状態にあっても、唯 (ただ) それを務めている、そのものの中に自分の身を沈めて、一切自分の考えというものを出さない。

「坐禅は坐禅なり」ということです。


本当に落ち着かない状態で、足が痛いし、暑いし、寒いし、様々な思想が出ている人がいるでしょうけれども、その事以外 (今の事実以外) に、脱落の状態、悟りの状態、涅槃の状態というのはないのです。

ですから、だんだん静かになっていって、そして【静かになったその結果】が脱落だとか、悟りだとか、涅槃だとか、考えてはいけないということです。


「修証不二、因果一如」というではありませんか。

「今の事実 (修証不二、因果一如)」。

これほど確実なものであるということです。


自分自身のことです。

ほかに求めるものは何もありません。


仮城 (けじょう)

2015年10月22日 | 仏教
少し坐禅をして安心 (あんじん) らしいものを見つけたとか、恐れというものがなくなったとか、静かになったということで、そういうところに腰をおろしてしまうのは、よくないことです。

とにかく、【坐禅を相続していくことが大変難儀】なことです。


私達衆生は、善いことだけを続けていこうと思いますが、実は【善いことも悪いことも坐禅の為には全部薬】になるものです。

善いことも、悪いこともともに、実体はありません。

ですから、善いこと悪いことを同じように全部拾い集めて、坐禅の力にしていかなければなりません。


「法華経」に「仮城喩品 (けじょうゆ ぼん)」というのがあります。

「仮城」というのは、仮の城ということです。

一つの城を通過したら、またもう一つの城が見えてきた、次から次へと城を経て、遂に最後の城にたどり着くのは大変なことだということを言っています。


考えてみれば、私達衆生の出発というのは、【もともと何もないところから出ている】ものです。

ですから、得るとか、捨てるとか、つかむというようなものがあれば、それは本来のものではないということに、自分自身で気付かなければならないということです。