私たち衆生は何も持っていないから、又何でも持てるのです。
それを「真の自由」といいます。
しかし、私たち衆生は何か自分に持ち物がある様な気がする
ものです。
ところが、「事実」は何も握っていられないように出来ている
のです。
しかしながら、それがなかなか思う様にいかないので皆苦労
するのです。
それは、「観念と事実」は違うからです。
「観念」というものは、すべてのものを思想上においてのみ
見る先入観があって、「事実」と遊離するから問題が起こる
のです。
私たち衆生は何も持っていないから、又何でも持てるのです。
それを「真の自由」といいます。
しかし、私たち衆生は何か自分に持ち物がある様な気がする
ものです。
ところが、「事実」は何も握っていられないように出来ている
のです。
しかしながら、それがなかなか思う様にいかないので皆苦労
するのです。
それは、「観念と事実」は違うからです。
「観念」というものは、すべてのものを思想上においてのみ
見る先入観があって、「事実」と遊離するから問題が起こる
のです。
一切目に見えるもの、聞こえるもの、世の中の現象は
全部衆生ということです。
何故そうか、無自性だからです。
すべてのものには自性がないのです。
「ない」というのは、有無の無ではありません。
其の物に成るということです。
仏教では、比較する何物もないものを「無」という言葉で
言い表しています。
つまり、そのもの自体を「無」と言っているのです。
観念と事実をはっきり自分自身で承知をする事です。
承知出来ない人は、坐ることによって承知をして生活をして
いきさえすれば、観念と事実との違いが分かってきて、
「法の生活」が出来るというのが仏教の教えです。
「心仏及衆生 是三無差別」
(しんぶつ ぎゅうしゅじょう ぜさん むしゃべつ)
というお言葉があります。
「心仏及衆生」とは、心と仏と衆生と三つあるけれども、
そのままで「差別(しゃべつ)」がないという意味です。
私たち衆生はおシャカ様のお説きになった「法」というものを
自分自身で「実證」、「事実においても理論においても証明」
する必要があるわけです。
そのようにして、おシャカ様が始めに自分のことを証明され、
又そのことを証明しながら、インド、中国、日本と伝わって
きているのが「禅」というものです。
観念と事実が相対的にあるという事は、自分自身が残っている
ということです。
自分がなくなってしまうと、たくさんの「法」があったとしても、
「差別(しゃべつ)」のまま、すべてが平等なのです。
すべてが平等なら「差別(しゃべつ)」というものがなくなって、
本当に一切のものがなくなるのです。
当然、「だったら、なくなったという事が分かるのではないか」
という疑問が出て来ます。
「ですから、それを分かるために、あなたもお坐りになりなさいと
歴代の覚者は言うのです。そうすれば、分からないという事も
分からないがままに、うなずけることがありますよ」と、言って
いるのです。
「公案」というのは禅宗特有の言葉ですが、公案を自分の
問題として坐る(禅定)によって解決していくことで、
仏教というおシャカ様の教えだけではなく、世界中の問題を
自分の問題意識として取扱い、参究をして解決をすることが
禅の神髄です。
しかし、昨今は、「禅」という言葉が独り歩きをしてしまって
道元禅師を始め、歴代の覚者の教えよりも「坐りさえすれば
いいんだ」という様な考えが非常に多くなり、おシャカ様の
説かれた法の影がどこか薄くなった感があります。
たとえば、「水、水」と言っても、喉の渇きを癒すことは
出来ません。
あるいは「火は熱い」と言っても唇は火傷をしません。
それほどに、事実と私たち衆生が後天的に得た「人間(にんげん)」
的な観念(知識)との間には、天地隔たる相違があるという事に
気が付かないために私たち衆生は些細なことにも、また社会の
様相にも迷い、疑問に思うのです。
このような疑問、世の中のすべての問題意識を、禅においては
「公案」と言っています。
長い間苦しみながら坐っておられて、ある夜明けの明星を
ご覧になった時、星の光を一つに成られたのです。
一つという事は相手がありませんから、それを光と感じた
自分もなければ、光そのものも無くなったのです。
無くなったままに「無くなった」ということが自覚出来たのです。
その一瞬、観念も又、法だということをお悟りになったのです。
「分かった」ということがすべてになり、何一つとして分からない
ことが無くなったのです。
俗に言うと、「分からないということさえも分かった」のです。
自分自身を発見するという事はそういうことです。
おシャカ様は、人々の苦しみにいたく心を病まれて、出家の道に
入って修行をさないました。
大変な苦行の結果、修行林の卒業証書を頂いたけれども、「死」
ということが分かりませんでした。
「死」というものが、観念的には分かっても事実が分からない
ということに気が付かれて非常に御苦労なさって禅定に入られました。
それが私たち衆生が務めている坐禅です。
先般、「因・縁・果」について話しましたが、私たち衆生は
様々なわだかまりや落ち着きがない様子があっても一つです。
数を数えることの出来ないほどの苦しみがあっても、自分の
心の中には一つしか入りません。
ですから、安らぎを妨げている苦というものが一つ解決すれば
あとの苦しみは雲散霧消してなくなってしまいます。
おシャカ様も当時はそのことをご存じなかったのです。
上を見てはいけません。
上を見ても上はないのです。
下を見てはいけません。
下を見ても下はないのです。
上も下も皆全自己の「有時(うじ)」なのです。
道元禅師は「有時」について、
「時すでに、これ有なり、有みな時なり」
とはっきりお示しになっております。
只身の程を知らなければなりません。
「人々(にんにん)の分上に豊かなり」です。
比較するから苦しむのです。
「天地一枚のもの」に比較の立てようがないのです。
道歌に曰く
「菰(こも)きても やつれがほなき 水仙花」
「うつむくは その掟なり 百合の花」