活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

三法印 (さんぼういん)3

2016年04月16日 | 仏教

先程申し上げた 「万物は流転する」 というのは、そのものを眺めている

「我 (私と言う中心になる人)」 があることになります。

 

眺めているだけならばまだしも、「坐禅」 の状態をよくしようとか、

あるいは切り捨てようとか、自分の考えで、自分を眺めているものを

処理していこうとすれば、これは最も悪いことになります。

 

しかし、仏教ではそのような様々な

人の思惑さえも「仏性」と名付けています。


たまたま自我の考え(我見) や、法の 「見解(けんげ)」 を立てて、

いろいろ散乱をしている状態であったとしても、「縁」 に触れて

一遍にそういうことがなくなり、もともと本来一つのものであったという

ことに気が付く時節があります。

 

それを禅では 「見性(けんしょう)」 とか 「目醒める」 という言葉で表しています。