活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

物の発生1

2016年04月24日 | 法理

「今の状態」が本当に其の物に成ってしまうと

自分も何も彼もないのが本当です。


「空に成ろう」 と思ってみても成れるものではないのです。

「物の発生」、「自分自身の発生」 を

「我」 も 「不知(知らず)」、「誰」 も 「不識(識らない)」

のです。


「存在」 しないのなら別ですけれども、「存在」 しているのです。

それが、今 「斯の様に在る」 のです。


それですから 「知(識)っても、知(識)らなくても」 関係なしに

「斯の様に在る」 のです。


ところが私たち衆生はそれで 「満足出来ない」 のです。

何しろ、「生活(活動)」 していて、今、話しているような状態が

本当に違いはないのですが、「満足出来ない」 のです。


「満足出来ない」 のは 「子供の時分に物心が付いた」 からです。

「物心が付いたということ自体」 は、どうして 「物心が付いた」 のか

「理屈詰め」 しても始まりません。


何故ならば、「子供自体」 物心が付いたという 「自覚」 がないからです。

ですから、「無明の煩悩」 といわれているのです。


それからそれを 「土台」 にして、「発展(成長)」 して、生活(活動)している」 のが

私たち衆生なのです。


それで、「今」 になって疑問が起こって考え方を持って、考え方を整理

しようとするから、いよいよ分からないように成るのです。