このように、元来何も名付けられないものを 「不知不識」 に 「人(ひと)」 と認識し、
「周囲の仲間 (世の中・世間) 〈仏教では人間を “じんかん” と読みます〉」 を
「人間 (にんげん)」 と見るようになるのです。
ですから私たち衆生は 「この世界(人間 “じんかん” )」 に生まれたということを
自分では絶対に 「知(識)る」 ことが出来ないにもかかわらず
「私はここに存在している」
という認識を起こしているのです。
これを 「般若心経」 では、「色・受・想・行・識」 という言葉で説明しています。