自分というのは、いつから自分になったのか、
自分で自分に問いかけても分かりません。
誕生日さえも、「知(識)りません」。
全部 「人間(じんかん)」〈註〉 によって、そのように教えられたのです。
※〈註〉広辞苑によれば、「人間(じんかん)」-人の住む所、世の中、世間
自分で考えてつくったというのはひとつも無いのです。
私たち衆生は 「人間(じんかん)」 によって育て上げられ(知識を得) てきた
自分を 「本当の自分」 であるかのように 「錯覚」 して振る舞っているのです。
「私は何年何月何日に生まれました、そして名前は○○です」 と。
しかし、良く考えてみますと、本当に自分で 「知(識)った」、
本当に自分で自分のことがわかっている人は一人もいないはずです。
何故ならば、他の知識によって育て上げられた自分と、自分だと思っている
自分との間に問題が生じているからです。
何も「知(識)らない自分」が 「今、始めて」 ものの本質、本来の自分というもの、
「自分自身で “これだ” というもの」 を体得しない限り、
どんなに克明に理論が完璧なものであったとしてもそれは
他人のものの見方、考え方というものを、自分のもののように
取り扱っているだけで、「究極(今の事実)」 までは届かないという
ことです。
そういうと 「究極(今の事実)というものがあるのか」 ということになりますが、
「いつでも究極(今の事実)」 だけなのです。
「今、今の連続」 だけなのです。