活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

無我とは1

2016年04月28日 | 仏教

「無我」 というのは、「人」 というものを認めた上の言葉です。

そこで 「人」 の根源は何かということが問題になります。

 

特に私は、「人(ひと)」 という言葉を使わずに、「此の物」 が 「人(ひと)」 と

名付けれられるようになったのは、いつからかということを

考えてみたいと思います。

 

父母の「縁」によって月が満ちて 「此の物」 が出来上がりますが

卵子と精子で構成している物質は何かということは科学で

ずっと遡っても 「究極のところ不明」 です。

 

私たち衆生は 「不知不識(しらずしらず)」 生まれて、いつの間にか

「人(ひと)」 あるいは 「人間(にんげん)」 と名付けられていたという

まったく根底のないものなのです。

 

このことを私は 「不知不識生(ふちふしきしょう)」 と名付けています。


そして 「人(ひと)」 には、「認識」 というものが 「自然 〈仏教では“じねん”と読みます〉」 に

備わっており、この 「認識」 が自分と他というものを分けて見る働き、

つまり 「自我」 というものを形成するのです。