「無我」 というのは、「人」 というものを認めた上の言葉です。
そこで 「人」 の根源は何かということが問題になります。
特に私は、「人(ひと)」 という言葉を使わずに、「此の物」 が 「人(ひと)」 と
名付けれられるようになったのは、いつからかということを
考えてみたいと思います。
父母の「縁」によって月が満ちて 「此の物」 が出来上がりますが
卵子と精子で構成している物質は何かということは科学で
ずっと遡っても 「究極のところ不明」 です。
私たち衆生は 「不知不識(しらずしらず)」 生まれて、いつの間にか
「人(ひと)」 あるいは 「人間(にんげん)」 と名付けられていたという
まったく根底のないものなのです。
このことを私は 「不知不識生(ふちふしきしょう)」 と名付けています。
そして 「人(ひと)」 には、「認識」 というものが 「自然 〈仏教では“じねん”と読みます〉」 に
備わっており、この 「認識」 が自分と他というものを分けて見る働き、
つまり 「自我」 というものを形成するのです。