活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

不知不識生(ふちふしきしょう)1

2016年04月20日 | 法理

先般、「三法印」再考 (2016・4・3)の中で

「新三法印」 として、「実相無相、不知生、本来成仏」 と

提示させて頂きました。


しかし、私の考えが浅かったと反省しておりますが、

本来 「不知生」 では不十分だと思います。


「不知不識生(ふちふしきしょう)」 のほうが、理解しやすいのでは

ないでしょうか。


道元禅師は「正法眼蔵」 の中で、

「恁麼時(いんもじ)の而今(にこん)は、吾も不知(ふち)なり、

誰(たれ)も不識(ふしき)なり、汝も不期(ふき)なり、

仏眼(ぶつげん)も覰不見(しょふけん)なり、

人慮(にんりょ)あに測度(しきたく)せんや」

と、はっきりお示しになっておられます。


意訳すれば、「絶対的な真実の瞬間は、我も知らず、

誰も識らないのである、汝も予期せず、仏の眼でも

覗き見ることが出来ない、まして、人間(にんげん)の考えで

どうして推測することが出来るであろうか」

ということです。


広辞苑に拠れば、「不知」 は①では 「知らないこと」、

「不識」 も “「知らないこと」、不知” と記されています。


ですから、「不知不識生」 とは 「知らず識らずに生ずる」

ということなのです。


「因縁生」 も 「知らず識らずに因縁より生ずる」 ということです。

始めから、「私たち衆生(不知不識の者)」 が知らず識らずに出来たのです。


「自分自身が自分自身の発生(生まれたということ)」 を

「知らない(識らない)」 のです。


「自分自身(此の物)」 は、「法」 として、「道」 として、

不知不識に出来たものなのです。


諸行無常

2016年04月19日 | 仏教

私たち衆生は始めから(不知不識に)、「法 そのもの」によって

出来上がったのです。

これが 「種」 であるといわれるような 「種」 らしいきまったものは

ないのです。

 

実体はないということです。

「無常」 ですから 「無限に変化」 するのです。

留まることを 「知(識)らない」 のです。

「此の物(自分自身)」 は変化しながら出来ているのです。

 

ですから、自分で変化させるのではないのです。

「耳」 一つとっても、「無常としての活動体」 なのです。

どんな 「差別(しゃべつ)」 にも成り得るのです。


そういうふうに、「平等」 としての世界に 「此の物(自分自身)」 は

いながら一つも 「平等の世界」 に留まれなく、

一つも 「差別(しゃべつ)の世界」 に留まれないのです。


つまり、「固定」 していないのです。

そういうものを 「超越」 してしまっているから 「諸行無常」 なのです。

その実体が、「今の私たち衆生(此の物自体)」なのです。


三法印 (さんぼういん)5

2016年04月18日 | 仏教

「三法印」を 「実証」 するために、しばらくの間、おシャカ様や歴代の覚者の

教えを借りて教えにしたがって、どうしても 「坐禅工夫」 をするという

必要が生じてくるわけです。

 

やめてしまっては、もうそれで終わりになります。

積んだり壊したり、積んだり壊したりしていること、

それ自体(悟り)なのです。


積んだり壊したりしている、その後に自分の求めているもの(悟り)が

実現すると思うから間違いなのです。


それをよく承知しておいていただかないと

積んだり壊したりすることが、なんとなく無駄なことのように

考えがちになるという事です。


すぐにそいういう 「見」 が生じて来るわけです。


間違いとか暗中模索だとか、苦しみだとかというものは

本当にこれは、自分の求めているもの(悟り) を助けてくれるものです。

絶大な力になるものです。


だから、そういうものの 「いいところだけ」 を取って自分の修行の

助けにしようという、そういう思いがいけないのです。


良いことも、悪いことも、自分の目的の為に大いに役立つことですから、

もう捨てるべきものは、何もありません。


別の言葉で言えば、積んでは壊しする、そのこと自体、

「結果」 として現われていることですから、その他、よそのものを

求めるために 「坐禅工夫」 をしてはならないということです。


三法印 (さんぼういん)4

2016年04月17日 | 仏教

「涅槃寂静(ねはん じゃくじょう)」 とは、「人人(にんにん)」 の

状態を言っています。

そして、「涅槃寂静」 の状態ではじめて仏教でいうところの

「修行」 になるのです。

 

すなわち、「無所悟・無所得(むしょご・むしょとく)

〈 悟るべきものもなければ、得るものもない 〉」

という、本当の 「無我の修行」 が始まるわけです。

 

「悟り」 とか 「見性(ものの本質を見定める)」 というのは、

「坐禅の三昧の中」 の、あるひとつの通過点です。

 

今では、その 「通過点」 をほとんど見落として

必要でない事のように考えていますが、それは大変な誤りです。

 

その通過点を通過した後に、「悟りの病」 を落とし、

「法(仏)の病」 を落とし、いよいよ本当の 「涅槃寂静」 の状態で

仏道修行が始まるということです。

 

このことを 「本證妙修(ほんしょう みょうしゅう)」 とか 「修證不二」

という言葉であらわしています。


三法印 (さんぼういん)3

2016年04月16日 | 仏教

先程申し上げた 「万物は流転する」 というのは、そのものを眺めている

「我 (私と言う中心になる人)」 があることになります。

 

眺めているだけならばまだしも、「坐禅」 の状態をよくしようとか、

あるいは切り捨てようとか、自分の考えで、自分を眺めているものを

処理していこうとすれば、これは最も悪いことになります。

 

しかし、仏教ではそのような様々な

人の思惑さえも「仏性」と名付けています。


たまたま自我の考え(我見) や、法の 「見解(けんげ)」 を立てて、

いろいろ散乱をしている状態であったとしても、「縁」 に触れて

一遍にそういうことがなくなり、もともと本来一つのものであったという

ことに気が付く時節があります。

 

それを禅では 「見性(けんしょう)」 とか 「目醒める」 という言葉で表しています。

 


三法印 (さんぼういん)2

2016年04月15日 | 仏教

おシャカ様は、八万四千と言われる法門をお示しになっておられますが

その内容を大別すると三つに集約することが出来ます。

これを 「三法印(さんぼういん)」 と言っています。

 

その一つ目は 「諸行無常」、二つ目は 「諸法無我」

三つ目は 「涅槃寂静(ねはん じゃくじょう)」 というお言葉です。

 

「諸行無常」 とは、人をも含めて一切すべてのものは、ひと時として

同じ状態はなく移り変わっているということです。

 

ヨーロッパにも昔、「万物(ばんぶつ)は流転(るてん)する」 と説明された

哲学者がいました。

しかし、それでは移り変わっている様子を眺めたり、その事を知っている

立場の人がいることになります。

 

おシャカ様のお示しの 「諸行無常」 と 「万物は流転する」 とでは

大変な相違があるのです。

 

「諸行無常」 を引き継いだお言葉に 「諸法無我」 というのがあります。

この無我の 「我」 というのは、私たち人間(にんげん) につける固有名詞

ではありません。

 

諸法(いっさいすべてのもの) は 「無我」 であるということです。

中心となるべき存在は何もないということです。

 

「坐禅」 を例にとれば、「今日は坐禅に集中出来た」

と言うと、自分の状態を常に眺めている人があるということになります。

 

しかし、そういうことは、本来出来ないことをやっていることになるのです。

 

 

三法印(さんぼういん)1 2015・7・10


仏道修行の特色 3

2016年04月14日 | 道元禅師

禅の一番悪い病は、修行をして 「自分がこうして、こうなったんだ」

という禅病とか、「法の病」 が残っているという事です。

 

そこで、道元禅師は

「迷惑せず、顚倒(てんどう)せず、増減なく、誤謬(ごびゅう)なし

ということを信ずべし」

と、お示しになって居られるのです。

 

そういうことが、本当に信じられたならば、それから修行に入りなさい

と、いっておられるのです。

 

けれども、私たち衆生は従来の習慣病、習気(じっけ)というようなもので

どうしても自分を含めて人の考えというもので

「自分の状態を取り扱おう、取り扱おう」

としてしまうのです。

 

どんなに一生懸命になって修行している人でも、必ずどこかに

ちらちらと自分の考えが首を持ち上げてきて、今の自分を

いいとか悪いという善悪をもって取り扱おうという習慣が

ついているのです。

 

これを 「坐」 によって、綺麗になくしていくということが

どうしても必要になってくるのです。

 

ですから、「信じるだけでは足らない」 のです。

それはまだ、「途中」 のものなのです。


仏道修行の特色 2

2016年04月13日 | 道元禅師

かつて、世間を騒がせた 「オウム真理教」 という教えも、

同じように 「修行」 という言葉を使っています。

 

大変な間違いは、オウムの教祖である麻原彰晃は

「私を信じなさい」 と言いました。

 

仏道では 「私を信じなさい」 ということは言っておりません。

「自灯明、法灯明」 といっております。

人ではありません。

 

おシャカ様も歴代の覚者も、必ず 「法」 によって目醒められている

わけです。

みんな 「法」 によって、自分の 「法身(ほっしん)」 に気付かれたのです。

それが、自分のなくなった様子です。

 

法身と法身とが一つになられたのです。

別の言葉で言えば、全く継ぎ目がなくなり、法身と法身とが融和

するということです。

 

科学的に言えば、人をも含めて物質というのは、全部

「火は熱し、水は潤い、地は堅固、風は動揺」 という

地水火風の 「四大(しだい)」 によって成り立っています。

 

それを、そういうものと必ず一つに成っていたことに

気が付くことです。

 

修行によって、新しいものが得られるというものでは

ありません。


仏道修行の特色 1

2016年04月12日 | 道元禅師

道元禅師 「学道用心集」 のお示しの中にある言葉です。

 

「仏道を修行する者は、先ず須(すべか)らく仏道を信ずべし、

仏道を信ずる者は、須らく自己本(元)道中に在って迷惑せず、

顚倒(てんどう)せず、増減なく、誤謬(ごびゅう)なしということを

信ずべし、是の如きの信を生じ、是の如きの道を明めて、

依って之を行ず、乃ち学道の本基なり」

 

「自己本道中に在って」 ということは、既に私たち衆生の煩悩、不安、

焦燥、怒り、愚痴というようなものは全部、そのものが既におシャカ様や

歴代の覚者の説かれる、「道」 である、「法」 である、「禅」 であるということを

まず信じなさいということです。

 

そして仏道だけに見られる修行ですが、

「一応信じて、そしてその信をなくする」

ことです。

 

他の宗教は、おそらく 「信」 ということが、すべてです。

 

仏道は、はじめは「信」に従って道を求め、そしてその

「信」 をなくすることによって、「道」 も 「法」 も 「禅」 も

「悟り」 も 「迷い」 もなくなるという教えです。

 


おシャカ様の伝記 2

2016年04月11日 | おシャカ様

おシャカ様は私たち衆生の為に命懸けで行われたのですから

犬死させては困るではありませんか。

 

二千五百余年間、それが潜在意識となって私たち衆生は

生まれ変わり、死に変わりして今日に至っているのです。

 

今日は昔の今日と同じです。

おシャカ様も眼は横、鼻は縦についていたのです。

天地と我とは離れられないものです。

元来が一つのものなのです。

 

「奇なる哉、奇なる哉、一切衆生 悉皆成仏」

(きなるかな、きなるかな、いっさいしゅじょう しっかいじょうぶつ)

と、叫ばれたのです。

 

私たち衆生を 「仏」 にしようと、おシャカ様は命懸けで行われたのです。

「常不軽菩薩(じょう ふぎょう ぼさつ)」 は人を見ると、「皆仏なり」

といって拝んだと言います。

 

私たち衆生は 「仏」 なのです。