先般、「三法印」再考 (2016・4・3)の中で
「新三法印」 として、「実相無相、不知生、本来成仏」 と
提示させて頂きました。
しかし、私の考えが浅かったと反省しておりますが、
本来 「不知生」 では不十分だと思います。
「不知不識生(ふちふしきしょう)」 のほうが、理解しやすいのでは
ないでしょうか。
道元禅師は「正法眼蔵」 の中で、
「恁麼時(いんもじ)の而今(にこん)は、吾も不知(ふち)なり、
誰(たれ)も不識(ふしき)なり、汝も不期(ふき)なり、
仏眼(ぶつげん)も覰不見(しょふけん)なり、
人慮(にんりょ)あに測度(しきたく)せんや」
と、はっきりお示しになっておられます。
意訳すれば、「絶対的な真実の瞬間は、我も知らず、
誰も識らないのである、汝も予期せず、仏の眼でも
覗き見ることが出来ない、まして、人間(にんげん)の考えで
どうして推測することが出来るであろうか」
ということです。
広辞苑に拠れば、「不知」 は①では 「知らないこと」、
「不識」 も “「知らないこと」、不知” と記されています。
ですから、「不知不識生」 とは 「知らず識らずに生ずる」
ということなのです。
「因縁生」 も 「知らず識らずに因縁より生ずる」 ということです。
始めから、「私たち衆生(不知不識の者)」 が知らず識らずに出来たのです。
「自分自身が自分自身の発生(生まれたということ)」 を
「知らない(識らない)」 のです。
「自分自身(此の物)」 は、「法」 として、「道」 として、
不知不識に出来たものなのです。