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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

原発と戦争と教育

2014年12月25日 13時42分23秒 | えいこう語る

▼ 日本弁護士連合会主催の、第57回人権擁護シンポジュームが、10月に函館市で開催された。メイン・テーマは「北の大地から考える放射能汚染のない未来」だ。サブ・テーマは「原発事故と司法の責任、核のゴミの後始末、そして脱原発後の地域再生へ」とある。他の用事で参加できなかったので、日弁連に電話をかけ資料を取り寄せた。全国の原発訴訟の裁判記録より解説された、かなりボリュームのある内容だ。

▼裁判録を読んでいると、住民の環境権や人格権の要望に対し、国策を後ろ盾に、安全審査をクリアーすれば了とする司法判断がみられる。被告行政庁側が安全審査に関する資料をすべて保持しているので、原告には不利になるようだ。だが、福島第一原発事故で、司法の考えは大きな転換を見せている。三権分立での司法の責任を、鮮明に自覚し始めているからだ。

▼ 今年5月の福井地裁での大飯原発の再稼動中止は、その表れであろう。しかし、大型台風並みの勢力を保ったアベナ内閣下で、また裁判への吹き戻し風が吹いているようだ。九州電力川内原発1・2号機に続き、関西電力高浜原発3・4号機の安全審査を、規制委員会が合格とし再稼動への道を開いた。新設の大間原発も、今月規制委員会に審査を要求した。1年以内に検査結果が出るようだ。福島の事故は、原発は人類の生存とは相容れないものであるということを証明したはずだが、なぜ生命を脅かす原発を推進するのだろうか。

▼ 今年7月18日、北海道新聞に掲載された作家宮内勝典氏の記事を引用する。1932年「ヒトはなぜ戦争をするのか?」という、国際連盟のテーマでのフロイトの考えだ。権力と暴力は密接に結びついている。人間の「愛」と「攻撃性」は分かちがたく、一体化している。暴力が克服されるには、権力が多数の人間の集団に移行する必要がある。つまり国民という集団の創りだす「法」が、権力の乱用に縛りをかけることだ。法のあり方を変えるもう一つの要素は、社会のメンバーたちの文化だ。文化が変われば、法のあり方が変わるという。さらに、文化が生み出すもっとも顕著な現象は、知性を強めることで、力が増した知性は衝動をコントロールできる。文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができるのだという。

▼ この考えに宮内氏は、フロイトは現実的に有効なことを語っていると思えないが、長期的にはやはり「知性」と「文化」しか希望がないと思うと記している。

▼ 脱原発、脱戦争は国民が望むものだ。しかし、今回の衆議員選挙ではアベ政権に強力な権力を与えてしまったようだ。フロイトの解釈では「権力からはすぐに暴力が出てきて、暴力からはすぐ権力が出てくる」という。そうであれば「国家・国民への愛情は、他の国への攻撃と分かちがたく一体化している」ということになるのではないか。フロイトの説から、私はアベ政権をそのように解釈する。新防衛相兼安全保障法制担当相に、元防衛庁長官の中谷元氏を指名したのは、その表れではないかとも思う。

▼ さらに、アベ政権で危惧するのは「道徳教育」の強化だ。「愛」と「攻撃性」の一体化には、少年期の教育が最も効果的だ。それが権力基盤の強化につながり、国家の暴力を増長させ「この道しかない」という道に、迷い込ませるのではないだろうか。国家が強制しようとする道徳教育の背景には、何かしらの作戦の布石であるような気がしてならないからだ。

▼ 私の考えも、現実的には決して有効なものではないどころか、邪推の範疇なのかもしれない。しかし、現憲法下では、権力は国民にあるというのは間違いない。それが、一般国民が考える「主権在民」ということだからだ。だが、アベ総理は、主権国家なので自主憲法の制定を目指すという。こんな複雑で曖昧な国家になってきて、来年は戦後70年を迎える。来年は戦後日本を覆っているスモッグの晴れ間が、見えてきそうな気がする。その時「どの道」を選ぶかが、私たち国民の最重要課題になるに違いない。

▼11月の始めにナマコ漁を行ってから、時化や寒波のため漁に出ていない。時間に余裕ができたので、原発訴訟という難解なものに挑戦し、頭が大混乱を起したようだ。やはり、太平洋に小船を出して、水平線から昇る朝日を拝むことが、私にとっては、最良の精神安定剤のようだ。


品格なき国家の私

2014年12月24日 11時57分47秒 | えいこう語る

▼ 岡潔という数学者は「数学の研究には俳句を学ばなければならない」といい、芭蕉の研究に励んだ。数学の独創には「情緒」が必要だと考えたからだという。「情緒」とは何かと聞かれると「野に咲く一輪のスミレを美しいと思う心」と答えたという。あらゆる理系の学問において「美的情緒」こそ、最も重要だという。藤原正彦著「国家の品格」より。

▼ 経済産業省が、原発の再稼動を交付金で誘導し、配分額に差をつけることを検討していることが、新聞に掲載された。福島第一原発事故は、故郷を奪い多くの難民を生んだ。故郷とは情緒を育む風景に満ち溢れている。その故郷を守るため、今、多くの国民は脱原発を望んでいる。経済は数学そのものだ。国民の情緒を交付金で奪おうという経済産業省には、もはや情緒の欠片さえない。品格なき国家を、堂々と世界に公言したのだ。

▼ 有権者のわずか4分の1ほどの得票が、自公で3分の2の議席を与えてしまったのだ。この数が、アベ政権を「品格なき国家」に突き進ませてしまったのではないだろうか。札束で国民の頬をびしばし叩く、北朝鮮を笑えぬ下品な第3次アベ内閣の誕生だ。

▼ 原発立地の自治体を対象にする電源3法交付金を、2016年度以降、再稼動した自治体には手厚く配分し、そうでない自治体には減額するという。この交付金は年間1000億円で、泊原発のある北海道は、13年度で30億6900万円が支給されているという。この交付金、電力会社の総原価方式による、電力料金から支払われるものだ。重ねて言うが、経済産業省の職員の数学能力には、岡潔先生のいう「情緒」はまったくない。

▼ 北海道泊村村長の談話が、原発立地自治体を代表するものだろう。「安全対策で原発を止めながら、再稼動が遅れれば配分を減らすというのは矛盾だ。減額されれば住民のサービスの低下を招く」と。再稼動ウエルカムの発言だ。

▼ 道庁幹部は、今回の制度見直しは「知事の判断に影響しない」というが、20日に政府・与党は、財源が確保できたので、新幹線の札幌延伸を5年前倒しすると発表した。来年、4選を目指すはるみ知事、マスコミの新幹線礼賛記事で道民の期待も大きいので「泊原発再稼動」を明らかにするのだろう。

▼ 20世紀は「戦争の世紀」といわれ、21世紀は「環境の世紀」といわれる。宍道湖の夕日に感動した小泉八雲は「長年の懸案であった鉄道が、十年を待たずに敷かれることにでもなれば、古風で趣のあった出雲の町も大きく拡張され、やがて平凡な一都市へと変貌を遂げることになるだろう。出雲だけではない。日本国中から、昔ながらの安らぎと趣が消える運命のような気がする」と述べている。

▼ 「大儀なき選挙」では、情緒なきアベノミクスの推進に加担させられ、品格なき国家の一員となった。「戦争反対」・「原発反対」・「新幹線も反対」。出来うれば、そんな情緒あふれる北海道にする、来年の知事選であってほしいと思うのだが。

▼衆議員選挙後、毎日寒さが厳しすぎる。私が気象担当者なら「アベノミクス寒波」と命名するけど。


東京駅記念切符騒動

2014年12月23日 10時59分53秒 | えいこう語る

▼ 東京駅100年を記念した乗車券販売での騒動は、現在の日本人を解説するに値する事件ではないだろうか。同じ日本人でも、地方に住む者ならあんな騒動にはならない。だが、首都圏に住む人間の群集心理だと、外野からの冷静な視点で論ずるだけでも済まされないように思う。なんだか割り切れない感情が、テレビを通して感じられたからだ。

▼ 先日の大儀なき衆議員解散選挙では、自公が3分の2の大量議席を確保した。来年は戦後70年を迎える。そろそろ占領下のお仕着せ憲法ではなく、主権国家としての自主憲法制定に向け「この道しかない」という、数の力で強引に主張を押し通す、そんな感じが東京駅記念切符騒動と重なったからだ。

▼ 東京駅側は想定外の混雑のため、事故防止を警察と検討した結果、販売を中止したという。想定が甘かったといえば言えるが、そうなってしまったら、事故防止を最優先するのが常識的だ。早朝から並んだとか、貴重な時間を返せなどと叫ぶ人も、大人気ない。中には「国民として恥ずかしくないのか」と、意味不明に詰め寄る人もいる。

▼ 戦後まもなくのように、食料の配分をめぐり詰め寄っているのではない。たかが記念切符の販売ではないか。首都圏の人間には、常識的な日本人がいなくなったのかと心配してしまう。自分の主張が正しく相手は常識外だというのであれば、公平さや寛容さの少ない人が、首都圏に増えているのではないかと思えてしまう。

▼ 私は東京駅職員の対応には、なんら違和感を覚えない。ただ全員が脱帽した瞬間は、クレーマーに土下座する店員の光景を思い出してしまい、そこまでするから、高飛車に出られるのだと思ってしまう。混乱にまぎれ、雑誌か新聞で職員の帽子を振り落とす光景も見られた。そんなに職員の対応が悪いのだろうか。

▼ 私はテレビに向い叫んでしまった。「首都圏の人々よ、電力がほしく今以上に快適な生活をしたいなら、東京に原発を誘致したらどうだ」と。記念切符一枚で、東京駅職員に「国民として恥ずかしくないのか」と罵るなら、福島から電力を供給してもらっていたのに、福島を忘れ切符に群がる行為は、国民として恥ずかしくないのかと言いたい。

▼ アベ政権に力を与えすぎた、今回の衆議員選挙の腹いせに、つい寛容さを失ってしまった私だが、100年経った日本人を、東京駅はどんな思いをしてみていたのだろうかと、ふと考えてしまったのだ。

▼戦後70年の来年、「国民として恥ずかしくない判断をしよう」と肝に銘じた、東京駅記念切符騒動である。


函館原発戦争・勃発

2014年12月22日 11時43分35秒 | えいこう語る

▼ 今回の衆議員選挙で、函館を中心とする北海道8区は、民主党の逢坂誠二氏が自民党前田一男氏を破った。しかし、前田氏も比例区で復活し二人が当選した。共に代議士としては若手なので、お互い競い合い道南発展のために活躍を期待したい。私たち有権者は、どちらが政治手腕を発揮できるかを見ていればいいので、次回の選挙は、勝負がはっきり分かれるに違いない。

▼ 両者、新幹線開業に向い、今後様々な政治活動がなされるのだろうが、函館市民にとって次期選挙の最大争点も、間違いなく「大間原発」だ。逢坂、前田両氏は、共に大間原発反対を貫いているが、原発問題では前田氏に分がない。なんといってもアベ総理に歯向かうことになるからだ。その分、予算獲得の面では前田氏に党本部としても配慮するだろう。

▼ 大間原発建設再開を承諾したのは民主党だが、原発問題では前田氏より逢坂氏のほうに説得力がある。この二人の間に立つのが工藤函館市長だ。逢坂氏一人だと、原発反対には強力な応援になるが、野党なので予算面ではマイナス要素だ。ところが前田氏も当選したことで、反原発での予算のマイナスを食い止めることが可能となる。大型客船を迎えるための港湾整備も、新年度には付く可能性だって大いにある。4月には対抗馬なしの再選確実といわれる工藤市長にとって、与野党二人の議員の当選は、願っても無い応援部隊になるに違いない。

▼ さて、二人一緒の当選を最も喜んでいる団体がある。函館市町会連合会だ。市町連では現在、大間原発建設反対大署名運動を展開している。届け先は経済産業大臣だ。今までは大臣や総理に要望書を出しているが、せいぜい玄関対応だ。今度は、二人の代議士にお願いし、必ずや大臣に直訴したいと考えている。この程度のことが実現できなければ、口ほどにも無い代議士だと市民は思うだろう。

▼ もう一つ、大間原発の施工者の電源開発は、まだ函館市民に説明も行っていない。原子力規制委員会に審査請求をしたのだから、堂々と対岸の函館市民に説明をして欲しい。このことについて前田氏は、市町連幹部との懇談会で、私が必ず連れてきて説明させると豪語したのだ。

▼ 函館市長が市民向けの説明会を電源開発に要望しても、実現されないが、前田氏ならこの程度は可能だと思う。アベ総理が、選挙応援に駆けつけるほどの信頼をみせているからだ。この程度も実行できないなら、逢坂氏との距離を狭めることはできない。

▼ 大儀なき解散選挙といわれた今回の衆議員選挙。我が函館市にとっては、大間原発反対の与野党両議員が当選したことで、大間原発は俄然身近になり、「函館原発戦争・勃発」の様相を呈してきた。両議員が共に切磋琢磨し、対岸の原発中止に向け競い合ってもらいたいものだ。

▼ 27万市民がどちらの陣営に付くか、本人たちの政治生命を賭けた戦いをじっくり観戦したい。来年は、戦後70年と新幹線到着を1年後に控えた、熱い函館市になりそうだ。

「青函の興廃この大間原発にあり、本日天気晴朗なれど津軽海峡波高し」

「函館市安全都市宣言」の中に付け加えたい文言である。


美味しい話

2014年12月19日 11時54分56秒 | えいこう語る

▼ 高齢者に対する詐欺行為が後を絶たない。複数の犯人役が登場し手口も巧妙だ。まるでテレビドラマのストーリーのような犯罪だ。このような犯罪は、人との接触が希薄で情報に疎く、常識的な判断ができにくい人に多い。

▼ と考えているうちに、原発立地問題が浮かんできた。過疎地に住んでいると中央の政治や経済、その他もろもろの情報に疎い。そこに、あまりにもバラ色の原発立地の話が持ち込まれる。膨大な固定資産税や電源三法などによる交付金が約束される。さらに、後ろには国が付いている。まさか国家が詐欺行為をするとは思わない。これに飛びつかない手はないのだ。

▼ お金に不自由ない。さらに「安心・安全なクリーンエネルギー」と冠がつけば、我が地域が地球の温暖化防止に寄与できるという、大きなプライドに身も心も奪われる。反対する者など、自らが「村八分」を選択することになる。それが原発立地地域の住民の常識だ。

▼ ところが、福島第一原発事故が起き、その惨状は、原発は人類の生存と相容れぬ存在ではないかということを気付かせられた。それでも原発立地地域で、住民全てが立ち上がり、再稼動反対を訴える自治体はいないようだ。自分のところは大丈夫だという確信ではない、自分のところでは起きてほしくないという願望だけだ。極端に言えば、ヒロシマ・ナガサキ・フクシマも他の地域のことだという意識なのかもしれない。

▼ 前置きが長くなった。実は昨日、我が村に聳え立つ活火山(618M)がある。そこでの「地熱発電構想と地表調査のご相談」という開発業者の会議に、参加要請されたのだ。私は地区の連合町会長なので、お呼びが掛かったようだ。この様な会議は、参加者全員に圧力釜をくれるというのものでない限り、地域住民は参加しないのだ。

▼ 渡された資料は、地域にとっては最良・最善の企業誘致内容だ。説明を受けても、反対するなにものもない。「安全・安心な再生可能エネルギーの推進」「電力の固定価格制度の概要」「地域貢献基金」等々だ。実はその日の北海道新聞朝刊に、固定価格制度の導入で参画した民間団体が、北海道電力が買い入れを制限したため、事業が行き詰っているという記事が掲載されていた。そこを質問すると、地熱発電はまだ参入が少ないので、国も奨励しているので確保できることになっていますとの回答だ。

▼ 出席者を見渡すと、私を含め一般住民は4人で、後は函館市の担当職員のようだ。最後に「調査を始めてもいいでしょうか」と、司会の市職員が同意を求める。誰も声が出ない。出なければ暗黙の了承になる。「私は地区の連合町会長だが、他の会長に全権委任されて出てきたわけではないので、判断できない」といった。だが、他に反論が無ければ、承諾とみなされる。

▼ 終了後、参加した他の地域の住民に聞いてみた。「これはいいことじゃないの」という。たぶん一般住民が百人参加したとしても、異議を唱えるものは皆無だろう。私も反対ではないが、このような流れで押し切られるのに、アレルギーを覚えるのだ。エネルギーとアレルギーは、原発問題から私の身体に発生した症状のようだ。

▼ さて今朝の北海道新聞、この会議の記事は以外と大きい。「来年春にも地表調査」だ。さてその下にはさらに大きい関連記事だ。「地熱発電の熱水活用・ハウス栽培展開」とある。会議でも説明があったが、恵山から車で1時間半ほどの森町で北海道電力が行っている地熱発電所の記事だ。「持続可能型の成功例に観光客増も期待」ともある。見出しを見るだけでは、この二つの記事は地熱開発礼賛の内容だ。あえて、関連記事を掲載することで、相乗効果を狙ったに違いない。

▼ 毎朝、大勢の人が同じ新聞を読む。物事の価値判断に大きな影響を及ぼすのが新聞だ。戦争中、大本営発表を無批判的に報道し、国民に多大な損害を被らせたのは新聞だ。確かにこの二つの記事は、地熱開発の有効性に肯定的な内容で、批判的なものは見受けられない。公平さに欠くのではないかと憤慨しながら読み進む。

▼ 最後に森町の地熱開発の記事は「受け入れ態勢に課題」とあり「地熱水をハウス栽培に利用する際の熱交換器は数年内に更新時期を迎えるが、誰がどのように経費負担するかはっきりしていない」とある。私も見出しのみを眺めざっと読んだため、記事の公平さを見落としてしまったのだ。最後まで読むと、記者の意図するものが納得できた。自分の感覚のみで心を乱し、記者の意図するところを読み取れなかったのだ。

▼ 新聞離れが言われる昨今、高齢者が多い地域では、見出しだけで内容を読み取る人が多いのではないかと思う。このような状態が長く続くと、人は正確に物事を判断する能力に欠け、大局を見失うのではないかと、危惧を感じる。

▼ こんな状態だと、また私の直感だが、「自主憲法制定」、「この道しかない」や「地方創生」などのワンフレーズに、その奥に潜む危険性に気付かない国民が多くなりそうな気がしてならない。今日のブログは会話調になり、つい長いおしゃべりをしてしまった。

▼私も長く生きてきて、失敗ばかり重ねてきたが、そこで得た教訓は「好事魔多し」だ。人を信用しないということではない。みんながよいと思うことこそ、慎重にと言う意味だ。そのくらいが情報の少ない田舎者の、自己防衛能力だと思うからだ。