▼ 日本弁護士連合会主催の、第57回人権擁護シンポジュームが、10月に函館市で開催された。メイン・テーマは「北の大地から考える放射能汚染のない未来」だ。サブ・テーマは「原発事故と司法の責任、核のゴミの後始末、そして脱原発後の地域再生へ」とある。他の用事で参加できなかったので、日弁連に電話をかけ資料を取り寄せた。全国の原発訴訟の裁判記録より解説された、かなりボリュームのある内容だ。
▼裁判録を読んでいると、住民の環境権や人格権の要望に対し、国策を後ろ盾に、安全審査をクリアーすれば了とする司法判断がみられる。被告行政庁側が安全審査に関する資料をすべて保持しているので、原告には不利になるようだ。だが、福島第一原発事故で、司法の考えは大きな転換を見せている。三権分立での司法の責任を、鮮明に自覚し始めているからだ。
▼ 今年5月の福井地裁での大飯原発の再稼動中止は、その表れであろう。しかし、大型台風並みの勢力を保ったアベナ内閣下で、また裁判への吹き戻し風が吹いているようだ。九州電力川内原発1・2号機に続き、関西電力高浜原発3・4号機の安全審査を、規制委員会が合格とし再稼動への道を開いた。新設の大間原発も、今月規制委員会に審査を要求した。1年以内に検査結果が出るようだ。福島の事故は、原発は人類の生存とは相容れないものであるということを証明したはずだが、なぜ生命を脅かす原発を推進するのだろうか。
▼ 今年7月18日、北海道新聞に掲載された作家宮内勝典氏の記事を引用する。1932年「ヒトはなぜ戦争をするのか?」という、国際連盟のテーマでのフロイトの考えだ。権力と暴力は密接に結びついている。人間の「愛」と「攻撃性」は分かちがたく、一体化している。暴力が克服されるには、権力が多数の人間の集団に移行する必要がある。つまり国民という集団の創りだす「法」が、権力の乱用に縛りをかけることだ。法のあり方を変えるもう一つの要素は、社会のメンバーたちの文化だ。文化が変われば、法のあり方が変わるという。さらに、文化が生み出すもっとも顕著な現象は、知性を強めることで、力が増した知性は衝動をコントロールできる。文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができるのだという。
▼ この考えに宮内氏は、フロイトは現実的に有効なことを語っていると思えないが、長期的にはやはり「知性」と「文化」しか希望がないと思うと記している。
▼ 脱原発、脱戦争は国民が望むものだ。しかし、今回の衆議員選挙ではアベ政権に強力な権力を与えてしまったようだ。フロイトの解釈では「権力からはすぐに暴力が出てきて、暴力からはすぐ権力が出てくる」という。そうであれば「国家・国民への愛情は、他の国への攻撃と分かちがたく一体化している」ということになるのではないか。フロイトの説から、私はアベ政権をそのように解釈する。新防衛相兼安全保障法制担当相に、元防衛庁長官の中谷元氏を指名したのは、その表れではないかとも思う。
▼ さらに、アベ政権で危惧するのは「道徳教育」の強化だ。「愛」と「攻撃性」の一体化には、少年期の教育が最も効果的だ。それが権力基盤の強化につながり、国家の暴力を増長させ「この道しかない」という道に、迷い込ませるのではないだろうか。国家が強制しようとする道徳教育の背景には、何かしらの作戦の布石であるような気がしてならないからだ。
▼ 私の考えも、現実的には決して有効なものではないどころか、邪推の範疇なのかもしれない。しかし、現憲法下では、権力は国民にあるというのは間違いない。それが、一般国民が考える「主権在民」ということだからだ。だが、アベ総理は、主権国家なので自主憲法の制定を目指すという。こんな複雑で曖昧な国家になってきて、来年は戦後70年を迎える。来年は戦後日本を覆っているスモッグの晴れ間が、見えてきそうな気がする。その時「どの道」を選ぶかが、私たち国民の最重要課題になるに違いない。
▼11月の始めにナマコ漁を行ってから、時化や寒波のため漁に出ていない。時間に余裕ができたので、原発訴訟という難解なものに挑戦し、頭が大混乱を起したようだ。やはり、太平洋に小船を出して、水平線から昇る朝日を拝むことが、私にとっては、最良の精神安定剤のようだ。