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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

又平先生

2014年12月08日 09時22分39秒 | えいこう語る

▼朝刊を読む順番はまずは一面、次は死亡欄だ。そこに又平先生の名前を見つけた。私が高校に入学したのは昭和39年だ。又平年生は、1年生の時の生物の先生だった。生物の苦手な私は、授業に関する印象はほとんどない。ただ叉平先生には二つの思い出がある。一つは、田舎の中学から街(函館市)の高校に入ったので、様々な驚きがあった。子供の頃から「ドンゲ」と呼んでいた植物が、「イタドリ」という学術名であるのを聞かされたことだ。街の学校に入ったので、教養が身に付くのだというのを初めて自覚した事だ。これが生物の授業での出来事だ。

▼  もう一つを話す前に、又平先生の人物像と、当時の学校周辺の環境を紹介しておきたい。背が高く痩せていて、当時40歳ぐらいだったはずだ。16歳の私にはおじさんのような印象だった。先生方にはほとんど渾名が付けられていたが、先生はそのまま「またへい」と親しまれていたようだ。団塊世代の私たちは人数が多いため、学区制により街中から離れた高台の、新設の高校への入学だ。先生たちも他の学校から集められた。学校の周囲は人家もなかった。雪が降ればバスは学校前まではいけず、随分手前の停車場から歩いたものだ。高台だったので、函館市内が一望でき、函館港に出入する連絡船が見えたものだ。おおらかな風景の中で青春時代を過ごせたのは、かけがえのないことのように思う。

▼  さて、もう一つの出来事だが、教科の点数が悪い私の心に、しっかり教訓を残してくれたことだ。それは、先生の軍隊経験の話だ。終戦を迎え生き残ったことに喜んだ。部隊解散の前、食パンが1本ずつ配給されたという。(これは一本なのか半分なのか定かではないが)ひもじい思いをしていたので喜んで食べた者、生き延びたことに対し感激で胸が詰まり食べられない人もいたという。食べられない人のパンをもらい、2本目にむさぼりついた仲間が、喉を詰らせ亡くなったという話だ。戦争で死なず、パンを食べて死んだ兵士の話だ。戦争の悲劇を語る、強烈な話として私の心の残っている。私は今まで、この話は何度も周囲に語ってきた。憲法解釈を閣議決定するような世の中なので、これからも又平先生のこの話を伝えていこうと思う。

▼  我が函館北高も、戦後、雨後の竹の子のように生まれた私たちのために新設されたが、半世紀に満たぬ間の少子化により、無用となり解体された。現在、市民のスポーツ施設が建設中だ。我が校は、当時ラクビーで花園出場をし、北海道に函館北ありと名をはせた。大勢の生徒が体育の授業でラクビーを楽しんだ。又平先生は、戦後生まれの生徒たちを見て、二度と戦争はしてはならないと優しい目で見つめていたのではないかと今に思う。

▼  高校入学から今年でちょうど50年。巷では大儀なき衆議院解散選挙の、むなしさが漂う中、先生は旅立った。昭和20年8月15日の、先生の笑顔が浮かんできた。そして、「二度と子供たちを戦場に送ってはならない」との先生の声も聞こえてきました。叉平先生、享年91歳。「生物」という学科は、命の尊さの学問ではないかと気付いた、出来の悪い教え子の一人です。

                                                                                                                 合 掌