▼ 高齢者に対する詐欺行為が後を絶たない。複数の犯人役が登場し手口も巧妙だ。まるでテレビドラマのストーリーのような犯罪だ。このような犯罪は、人との接触が希薄で情報に疎く、常識的な判断ができにくい人に多い。
▼ と考えているうちに、原発立地問題が浮かんできた。過疎地に住んでいると中央の政治や経済、その他もろもろの情報に疎い。そこに、あまりにもバラ色の原発立地の話が持ち込まれる。膨大な固定資産税や電源三法などによる交付金が約束される。さらに、後ろには国が付いている。まさか国家が詐欺行為をするとは思わない。これに飛びつかない手はないのだ。
▼ お金に不自由ない。さらに「安心・安全なクリーンエネルギー」と冠がつけば、我が地域が地球の温暖化防止に寄与できるという、大きなプライドに身も心も奪われる。反対する者など、自らが「村八分」を選択することになる。それが原発立地地域の住民の常識だ。
▼ ところが、福島第一原発事故が起き、その惨状は、原発は人類の生存と相容れぬ存在ではないかということを気付かせられた。それでも原発立地地域で、住民全てが立ち上がり、再稼動反対を訴える自治体はいないようだ。自分のところは大丈夫だという確信ではない、自分のところでは起きてほしくないという願望だけだ。極端に言えば、ヒロシマ・ナガサキ・フクシマも他の地域のことだという意識なのかもしれない。
▼ 前置きが長くなった。実は昨日、我が村に聳え立つ活火山(618M)がある。そこでの「地熱発電構想と地表調査のご相談」という開発業者の会議に、参加要請されたのだ。私は地区の連合町会長なので、お呼びが掛かったようだ。この様な会議は、参加者全員に圧力釜をくれるというのものでない限り、地域住民は参加しないのだ。
▼ 渡された資料は、地域にとっては最良・最善の企業誘致内容だ。説明を受けても、反対するなにものもない。「安全・安心な再生可能エネルギーの推進」「電力の固定価格制度の概要」「地域貢献基金」等々だ。実はその日の北海道新聞朝刊に、固定価格制度の導入で参画した民間団体が、北海道電力が買い入れを制限したため、事業が行き詰っているという記事が掲載されていた。そこを質問すると、地熱発電はまだ参入が少ないので、国も奨励しているので確保できることになっていますとの回答だ。
▼ 出席者を見渡すと、私を含め一般住民は4人で、後は函館市の担当職員のようだ。最後に「調査を始めてもいいでしょうか」と、司会の市職員が同意を求める。誰も声が出ない。出なければ暗黙の了承になる。「私は地区の連合町会長だが、他の会長に全権委任されて出てきたわけではないので、判断できない」といった。だが、他に反論が無ければ、承諾とみなされる。
▼ 終了後、参加した他の地域の住民に聞いてみた。「これはいいことじゃないの」という。たぶん一般住民が百人参加したとしても、異議を唱えるものは皆無だろう。私も反対ではないが、このような流れで押し切られるのに、アレルギーを覚えるのだ。エネルギーとアレルギーは、原発問題から私の身体に発生した症状のようだ。
▼ さて今朝の北海道新聞、この会議の記事は以外と大きい。「来年春にも地表調査」だ。さてその下にはさらに大きい関連記事だ。「地熱発電の熱水活用・ハウス栽培展開」とある。会議でも説明があったが、恵山から車で1時間半ほどの森町で北海道電力が行っている地熱発電所の記事だ。「持続可能型の成功例に観光客増も期待」ともある。見出しを見るだけでは、この二つの記事は地熱開発礼賛の内容だ。あえて、関連記事を掲載することで、相乗効果を狙ったに違いない。
▼ 毎朝、大勢の人が同じ新聞を読む。物事の価値判断に大きな影響を及ぼすのが新聞だ。戦争中、大本営発表を無批判的に報道し、国民に多大な損害を被らせたのは新聞だ。確かにこの二つの記事は、地熱開発の有効性に肯定的な内容で、批判的なものは見受けられない。公平さに欠くのではないかと憤慨しながら読み進む。
▼ 最後に森町の地熱開発の記事は「受け入れ態勢に課題」とあり「地熱水をハウス栽培に利用する際の熱交換器は数年内に更新時期を迎えるが、誰がどのように経費負担するかはっきりしていない」とある。私も見出しのみを眺めざっと読んだため、記事の公平さを見落としてしまったのだ。最後まで読むと、記者の意図するものが納得できた。自分の感覚のみで心を乱し、記者の意図するところを読み取れなかったのだ。
▼ 新聞離れが言われる昨今、高齢者が多い地域では、見出しだけで内容を読み取る人が多いのではないかと思う。このような状態が長く続くと、人は正確に物事を判断する能力に欠け、大局を見失うのではないかと、危惧を感じる。
▼ こんな状態だと、また私の直感だが、「自主憲法制定」、「この道しかない」や「地方創生」などのワンフレーズに、その奥に潜む危険性に気付かない国民が多くなりそうな気がしてならない。今日のブログは会話調になり、つい長いおしゃべりをしてしまった。
▼私も長く生きてきて、失敗ばかり重ねてきたが、そこで得た教訓は「好事魔多し」だ。人を信用しないということではない。みんながよいと思うことこそ、慎重にと言う意味だ。そのくらいが情報の少ない田舎者の、自己防衛能力だと思うからだ。