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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

過疎の村の花火大会

2007年08月15日 16時39分27秒 | えいこう語る
8月10日。北海道亀田郡椴法華村。(平成16年12月函館市に吸収合併・人口約1,300人)午後8時から花火大会が、港の先端で打ち上げられた。
合併して3年を迎えるが、人口の減少は止まない。
出生率が死亡率を下回る、いわゆる、自然滅と言う状態が続いているからだ。
村は両端に岬が突き出ていて、U字型の地形をしている。その一方の岬の先端から花火が打ち上げられるので、村中の家の前から花火を見ることが出来る。左側には広大な太平洋が広がり、沖合いには10数隻の烏賊釣り漁船が、仕事をしている。
漁火もマチの灯りも随分寂しくなった。それに比べ花火の美しさと豪華さは、それらの沈滞ムードを打ち消すようなエールにも思えた。
約40分の花火は、村人の心の中に、何らかのメッセージを残したに違いない。
終了後しばらくの間、会場から引き返す車で、騒々しかったが、やがて村は、静寂の闇の中にすっぽりと包まれた。
海岸線の外灯は道なりに一直線に並び、それに民家の灯りが疎らに点在している。闇の中から聞こえる音と言えば、静かに繰り返す波の音だけ。
小さくても自然環境に溢れ、128年間に渡り先人達が築き上げて来た村が、財政難の責任の所在すら明らかにせず、30万都市に吸収合併された。私にとって大海に放り出された、一艘の小舟のような気がした、花火大会の夜だった。


今一番気にかかること

2007年08月07日 18時00分55秒 | えいこう語る
拝啓 北の湖理事長様
今一番気にかかる事は、横綱・朝青龍に対する相撲界の対応についてです。
最近の相撲界は、外国勢がその人気を支えているといっても過言ではありません。グローバル化されてくるその中で、文化が違う人たちの共存は、日本の伝統精神を守るには、困難さが出てきているのがこの問題の根底にあります。
どう折り合っていくかではなく、いかに同化させるかが相撲界全体にとって、正しい考えと思います。
また多くの相撲フアンも、社会全体がボーダレス化しグローバル化する中で、国技といわれるこの伝統的社会の維持は、崩さないで欲しいと望んではずです。つまり国民にとっては、壊したくない最後の日本的精神の砦でだと思っている人が多いと思います。
そうであれば結論は決まっています。相撲界は朝青龍を、横綱不適格者とし、除名すれば良いのです。誰がなんと言おうが、相撲界の掟の厳しさを世に示せばよいのです。
大臣達が人格を疑われる発言をしても、かばう我が国の決断のない首相がいて、世の中が混乱している状態を鑑みれば、国技といわれ、礼節を重んじる相撲界で、日本人はかくあるべきだという、けじめを内外に示して欲しいのです。
ここで妥協策を考えたりするのであれば、相撲離れにますます拍車がかかり、相撲界の将来もないと考えます。たとえ理不尽なことが多くあっても、ここは伝統に則った判断で良いのではないでしょうか。
無理偏に拳骨と書いて「兄弟子」と読む社会と聞いています。
要は、伝統を守るか、守れないかの決断です。北の湖理事長の判断は絶対的なのです。相撲協会の理事長とは、帝国憲法下のあの人の様な、存在であると、私たちは期待しているのです。現役の土俵態度の様な、あのみごとな投げっぷりを、理事長に期待しているのです。
でもその反対に、相撲界は時代に即し、寛大な態度を示したとします。
やがて外国人力士が幕内を全部占めて、行司も外国人になり、優勝した力士に、その国の大統領が優勝賜杯を渡すことになります。。我が国の総理は土俵に上がるのが皆無となり、他国の女性大統領も土俵に上る羽目になります。。
気がついたら理事長までが外人になっていた。そんな悪夢は真っ平ごめんです。
時代がどうのこうのという話ではありません。共存がどうのと言う問題でもありません。
要するに相撲道の問題なのです。道を曲げてはいけないと思います。
ここは日本相撲界の、歴史的転換の大一番であると期待しています。
何卒、八百長相撲の様だと言われるような、後味の悪い一番にしないようお願いを申し上げます。               平成18年8月7日
追伸
北の湖理事長の大フアンであった私の友人は、理事長の現役時代、テレビの前に陣取り、あなたが負けると、自分も畳の上に転んだのを、私は何度も見ています。
そんな彼は、3年間に及ぶ入退院を繰り返し、次に入院したら、治療は拒否すると言い残し、昨年の12月、癌の病でこの世と決別しました。享年58歳でした。
彼が生きていたら、この問題どんな勝負展開をしたか、初盆を迎える彼を思い、半世紀に渡る相撲フアンの一人として、期待を込めて書いてみました。
書中、失礼な言説があったかと思いますが、相撲界を愛するが故と、お許しいただきたいと思います。


原爆投下と二つの詩

2007年08月06日 14時28分57秒 | えいこう語る
62年目の原爆の日がやって来た。
広島原爆投下 昭和20年8月6日 午前8時15分 
ウラニューム235 死者推定 247,000人
長崎原爆投下 昭和20年8月9日 午前11時2分
プルトニューム239 死者推定 122,000人

天然に存在する元素は、92番のウランまでである。これに人工的に陽子や中性子を加えて新しい元素をつくった。それが93番元素ネプツニウムで、ウラン(ウラヌス=天王星に由来)の外側と言う意味で、ネプチューン(海王星)にちなんで命名された。
そうなると94番元素は、とうぜんプルート(冥王星)にちなんで、プルトニュームということになる。この元素に冥土の王と名付けられたのは偶然とは言え、なんと皮肉なことだろうかと、故高木仁三郎さんの「プルトニュームの未来」岩波新書に書いてあった。
私はこのプルトニュームと言う名前は、宇宙を支配する神が人類に与えた、警告ではないかと思う。原子力開発の関係者達は、人類に対する貢献度と破滅度を最も理解している人たちである。日本の原発にも「しゃか」「もんじゅ」などの名前が付けられてあるとおり、神の逆鱗に触れぬよう日々努力をしているはずである。しかしそれが国家政策であるから、様々な問題が発生する。
1945年8月、米国はその破壊力で自国の力を示し、犠牲を最小限に食い止めたとの逆説で貢献度にもしてしまった。
それは天然にある元素と、人間が作り出した元素との破壊力の比較と、人体実験に過ぎないかったのではないだろうか。
それから62年後の被爆国日本は、現在下北半島に、ウランとプルとニュームを合わせたMOX燃料を使用する、プルサーマル原発を建設しようとしている。
この因果に神はどんな試練を、再び私たちに下すのだろうか。
世界一の地震国に50数基の原発。新潟の刈羽原発の事故は、その予兆のように感じられる。
ブログで「ある兵士の祈り」の詩を紹介された。
大きなことを成し遂げるために 力を与えてほしいと神に求めたのに
謙虚を学ぶようにと 弱さを授かった
世の中の人々に賞賛を得ようとして 成功を求めたのに
得意にならないようにと 失敗を授かった
この詩こそが、世界の政治家の、全ての執務室に飾られてほしいものだ。
もう一つ、これも作者不詳の詩「千の風になって」がある。
私のお墓の前で泣かないで下さい そこに私はいません
死んでなんかいません 千の風になって あなたを見守って
いつまでも大空を吹きわったっています
原爆で、直接亡くなった人たち、戦争で死を余儀なくされた兵隊たち、犠牲になった多くの一般市民。その人たちは自分の死を、本当に受け止めていない方も多いのではないだろうか。
「千の風になって」の詩が、広島・長崎で大きな歌声になることを期待し、私も反戦と反原発の意識を新たにした8月6日の朝です。
なんと言うめぐり合わせでしょうか。この文章を書いていると、外から「千の風になって」のメロディーが聴こえてくるではありませんか。
夏休みの子供が偶然にも口笛を吹いて、窓の近くを通り過ぎていったのです。       2007・8・6


昭和38年解剖!

2007年08月05日 16時31分41秒 | インポート
昨夜の衛星放送で「昭和38年解剖」と言う、3時間放送を見た。
翌年の東京オリンピックを控え、日本がどんな時代を迎えようとしていたのか、様々な出来事から、分析していた。
当時、函館市の高校を目指し、田舎から脱出を計っていた中学三年生の私としては、とても興味深い内容でした。
昭和38年(1963年)の出来事です。
3月。吉展ちゃん(4歳)誘拐事件、当時あまりに衝撃的であり、2年後犯人小原保が逮捕。今でも犯人の名は忘れません。
6月。黒四ダムが完成し、関西方面の電力の安定供給であり、オリンピック後の経済発展を見越してのことと、今にして思いました。
8月。第1回全国戦没者追悼式挙行。オリンピックムードの盛り上がる中で、戦争がもつ暗部を和らげるには、良い機会だと見たのでしょうか。
11月。ケネディー大統領暗殺。昨日の放送に参加していた、「広告批評」の天野祐吉さんは,この事件のほうが9・11の同時多発テロより、自分の人生では衝撃的だったと話していました。
12月。戦後のスーパーヒーロー。力道山がヤクザに刺されて死亡。
私が覚えている38年はこの程度です。
当時巷に流れていたのが植木等さんの「スーダラ節」だったそうです。コカコーラもその頃出たようです。「骨が脆くなる」なんて言われていました。
昨日の放送では、原宿界隈のことが印象として残っています。昭和30年代中頃まで、街灯がなかったそうです。
国立屋内競技場が日本の建築学の叡智を集め、工事に携わる人たちも、敗戦による三等国のイメージを払拭するために頑張ったそうです。選手村になったのは敗戦後「アメリカンハウス」があったところで、オリンピックの為に返還してもらったそうです。終了後に代々木公園になったのも、初めて聞きました。
とにかくあっという間に道路が拡張され、町並みが一変していったそうです。交通量の増大を見越し、都立杉並線が廃止になり、地下鉄が出来、古いものは消えて、新しいものがどんどん出来、あの頃は市民が現実を捕らえる余裕などなく、ただ、『暴力的に工事が進んでいった時代だった』と話していました。
(日本列島改造計画の時もそうでしたが)
戦後、日本人が引きずっていた様々な劣等感やトラウマを、捨て去る機会にしようとしたのが、オリンピックの盛り上がりの裏に潜んでいた、大きなテーマであった様に感じました。
時代が何を要求し何を選択しなければならないのか、その答えは、歴史を繰り返し学ぶ事により、見えてくるのではないかと、あらためて思い知らされた昨夜の番組でした。
次は『安倍晋三解剖』を。何故この内閣が誕生したのか、討論して欲しいものです。



阿久悠さんと美空ひばりさん

2007年08月04日 15時03分43秒 | えいこう語る
2007・8・4
阿久さんの作詞で、自分は生涯忘れないだろうというのは、たくさんあります。
「津軽海峡冬景色」=上野発の夜行列車降りた時から、青森駅は雪の中。
故郷の匂いがする上野駅が浮かび、あっという間に雪深い青森へ。
言葉の配列が不思議な力を感じさせる、阿久マジックのテレポーテーションの凄さです。♪凍えそうなカモメ見つめ鳴いていました、と絶唱する石川さゆりさんの歌声に、津軽海峡を往来していた青函連絡船の八甲田丸・大雪丸・羊蹄丸・津軽丸などの勇姿が、私には浮かんできます。
「五番街のマリー」昔の恋人の消息を尋ねるというこの詩に、青春時代の淡い恋心を重ね合わせている方も、多いのではないでしょうか。もちろん私もその1人です。
その阿久さんが、同い年の美空ひばりさんに、対抗意識を持ち、ひばりさんがが、歌いそうにない歌をめざして書いていたという秘話が、朝日の<天声人語>に書かれていました。
でも彼女の死後は、美空ひばりのために、歴史的な詩を提供できなかったことが、心残りだったと話していたそうです。
阿久さんは8月15日を、第2の誕生日と語っていたそうです。戦前的な日本人観の呪縛から解放され、自由への出発が、流行歌であり、映画であり、野球だったそうです。
ひばりさんは、阿久さんが戦後の日本人が、一度清算しなければならないと思ったものを、引きずって戦後を生きて来たのではないかと思います。
それは世間にも極端にまで見えた、家族愛の姿であり、興行に付きまとう業界との関係、それらの根底を支えていた、浪花節的日本人観ではなかったでしょうか。
私もそんな感じで、ひばりさんを遠くから見ていたので、感動らしきものは彼女から受けたことがありませんでした。だが亡くなってから、「川の流れのように」「愛燦燦」で、彼女の歌の心を知り、昭和はひばりさんの歌声と共にあった事に新ためて気付いたものです。
心の隅にあったわだかまりが解け、すっかりひばりフアンになってしまいました。阿久さんもきっと同じ感覚だったと思います。
「舟歌」「北の宿から」などの演歌の真髄を感じさせる名曲の数々。
それを書いた人と思われぬ「UFO」「林檎殺人事件」「どうにもとまらない」のヒット曲。これらの作品からしても、戦争に繋がって行った、全ての考え方を破壊し、戦後民主主義を大切にしていこうとする、強い意思を私は受け取っています。
昭和という時代が大好きで、でも少し時代にもチョッカイ出してみたりする、チョイ悪オヤジの気風の良い焼け跡派が、また1人旅立っていきました。
「阿久悠」とは、「悪友」から付けた、粋なペンネームなのでしょうね。
「さらば昭和」なんて作詞をし、ひばりさんが歌い、天国で大ヒットしているかもしれませんね。