函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

62回目の8月15日

2007年08月15日 17時03分24秒 | えいこう語る
先日テレビで、漫画家の水木しげるさんの戦争体験をもとにした「総員玉砕せよ」を見た。ニューギニア戦線は、食糧難と物資不足、さらには伝染病の蔓延、頼みの援軍さえなく、引き返すことも出来ず、全員玉砕と言う無謀な命令を下した。
なぜ生きてはいけないのか、なぜ死ななければならないのか、自分の命を国家に翻弄され、死んでいかなければならない戦争の悲惨さが描かれていた。
水木さんの隊の参謀は、自分が玉砕を見届けると言って、部下を突撃させ、自分だけが生きのびようとした。それが戦争の本質を除かせた、強烈な一場面であった。
私の親戚にも、わずかしか生還できなかった戦場にいた人がいた。自分は大学出の上官だったから、蛇もトカゲも食べたが食料が確保でき、それで餓死せずに助かったと、酒を飲んだ時に一度だけもらした事があった。
沖縄戦線での、ひめゆり部隊の映画もテレビで放映していた。
校長先生が、軍の命令を伝え、私の気持も察してくれと、自分勝手なことを言い、責任を逃れようとした場面があった。責任を果たすのは自分の上位の人たちに対してであって、自分の下にいる者に対する責任が無かったのは、前述した、参謀と同じである。
戦後、B・C級戦犯になって、処刑された軍人が千人近く居たとされるが、公開されないでいるのか知らないけれど、ほとんどが最高責任者である、大元帥閣下の戦争責任を口にした者はいなかったようだ。恐ろしい時代であり、恐ろしい教育である。
戦後60年の節目に、靖国神社を見学した事がある。
当時の世界情勢からして「自衛の為の戦争」というのは一見正しいように思えるが、どれほどの人が無残で意味のない死を遂げさせられたかを念頭に置き、靖国神社をお参りすると、戦争が人間のもっとも愚かな行為だということに気付く。8月15日というのは、私には「責任のとりかた」についてを考える日ではないかと、今年はテレビの番組から教えられたような気がする。。
議員の事務所経費の問題、社会保険庁や林野庁の問題、イラク戦争への米軍への支援、身近には市町村合併など、過ぎた事だから「しかたがない」が、いまだに国中にまかり通っていれば、62年たった今でも、以前、精神面で成長の無い国になっているような気がしてならない。


子供たちが泳がなくなった理由

2007年08月15日 16時58分31秒 | えいこう語る
北海道もこの数日、猛暑と言ってもいいくらいの暑さが続いている。
海が目の前なのに、泳いでいる子供たちがいない。
私達が子供の頃は、ウニが商品としての価値がなかったので、海水浴と言えば、ウニを捕って食べた。焚き火の中に放り込んだ焼きウニはとても美味しかった。ウニと同じく最近は貴重になったなまこも、捕ってはすぐかじりついた。捕りたては塩味も適度に効いていてとっても美味しかった。ウニを食べるため、泳ぎも、潜るのも自然に身に付いた。
水中メガネをかけ昆布を掻き分けて潜って行くと、岩の間にびっしりウニが詰まっていた。息切れして海面に顔を出すが、潮に流され場所がわからなくなると困るので、すぐに潜った。海の中には様々な魚が泳いでいて、天然の水族館だった。岩の間から突然カジカが現れて、水中メガネではそれがとっても大きく見え、怪獣だと声を上げ、海水を飲んだ事も何度もあった。
その頃築港が整備されていなかったのか、烏賊釣り漁船が、泳いでいけそうな距離に停泊していた。そこに大勢で泳いで行き船の底を潜ったり、船の上から飛び込んだりした。夏の砂浜は広々として、野球や相撲を楽しんだ。落とし穴だって無数に作って遊んだ。流木だってたくさんあったので、何時も焚き火をしたし、消防に注意される事なんかまったくなかった。
いじめや喧嘩もなく、上級生の言う事を聞いていれば、事故も無く楽しかった。
テレビの普及やゲームのせいも大いにあるかもしれないが、あの美味しいウニを捕ってはいけなくなったあたりから、子供たちは海の魅力から離れてしまったような気がしている。
子供たちのいない夏の海岸は、寂しいものがある。
一番寂しがっているのは海そのものかもしれない。2007・8・14


過疎の村の花火大会

2007年08月15日 16時39分27秒 | えいこう語る
8月10日。北海道亀田郡椴法華村。(平成16年12月函館市に吸収合併・人口約1,300人)午後8時から花火大会が、港の先端で打ち上げられた。
合併して3年を迎えるが、人口の減少は止まない。
出生率が死亡率を下回る、いわゆる、自然滅と言う状態が続いているからだ。
村は両端に岬が突き出ていて、U字型の地形をしている。その一方の岬の先端から花火が打ち上げられるので、村中の家の前から花火を見ることが出来る。左側には広大な太平洋が広がり、沖合いには10数隻の烏賊釣り漁船が、仕事をしている。
漁火もマチの灯りも随分寂しくなった。それに比べ花火の美しさと豪華さは、それらの沈滞ムードを打ち消すようなエールにも思えた。
約40分の花火は、村人の心の中に、何らかのメッセージを残したに違いない。
終了後しばらくの間、会場から引き返す車で、騒々しかったが、やがて村は、静寂の闇の中にすっぽりと包まれた。
海岸線の外灯は道なりに一直線に並び、それに民家の灯りが疎らに点在している。闇の中から聞こえる音と言えば、静かに繰り返す波の音だけ。
小さくても自然環境に溢れ、128年間に渡り先人達が築き上げて来た村が、財政難の責任の所在すら明らかにせず、30万都市に吸収合併された。私にとって大海に放り出された、一艘の小舟のような気がした、花火大会の夜だった。